odd_hatchの読書ノート

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松田道雄「世界の歴史22 ロシアの革命」(河出文庫)

 もとは1974年初出で、1990年に文庫化された。著者は小児科医で、育児の本で有名。彼の原作をもとに商業映画もつくられたくらい。一方、ロシア革命の研究家でもあるらしく、いくつか著作があるようだ。このあとがきによると、書き手がほかにいなくてお鉢が回ってきたらしい。「被害意識」「鬱憤」と当時の研究家、歴史家に不満をぶちまけている。

 さて、「世界の歴史」叢書の一冊ではあるが、ロシア革命家・党派の歴史といったほうがよい。夭逝した革命家のはなしはあっても、ロシア帝室の政治・経済政策はほとんど触れられない。周辺国家との関係もこれだけでは足りない。まあ、初出の時代には革命家の情報が重要だったといえるのかな。
・19世紀のロシア革命の記述は荒畑寒村「ロシア革命運動の曙」(岩波新書)を補完するもの。冒頭はゲルチェンとオガリョフの誓い(1828年)で始まり、以下のような革命運動と革命家が登場。デカブリストの反乱、ナロードニキ運動、「人民の意思」党のテロリズムチェルヌイシェフスキーバクーニン、ネチャーエフ、プレハーノフなど。最初のマルクス主義政党は1883年設立。レーニンの組織した戦闘団による「徴発」と「収入」(銀行などを襲って現金を入手、それを党の活動資金に回す。この国もは戦前の共産党や1970年代前半の連合赤軍が同じことをして、信用を著しく低めたものだ)。
・1905年の大蜂起。そして第1次大戦中のストライキなどで、レーニンの「戦争を内乱へ(そこから革命へ)」というスローガンができる。このころはレーニンとトロツキーはついたり離れたり
・1917年、第1次大戦でドイツ軍の猛攻でペトログラード(1914年にドイツ語風のペテルブルグからロシア語風に改名)の市民の不満は高まる。前線の兵士も食料の不足等で不満が蓄積。2月23日に国際婦人デーに合わせた婦人の「パンよこせ」デモ発生。2日後スメナンスキー広場を群衆が占拠、さらに2日後兵士によるデモ。国会が皇帝の解散命令を無視し、国会臨時委員会を設立。ペトログラード労働者ソヴェトも別に設立。臨時委員会は臨時政府であることを宣言。3月2日に皇帝が退位。以上が簡単な2月革命の流れ。このとき、ボリシェヴィキはデモから臨時委員会の設立にはほとんど関与していない。むしろ臨時政府の設立に反対していた。トロツキーは監獄のなか、レーニンはスイスに亡命中だった。臨時委員会はブルジョア政党や穏健右派の社会革命党やメニシェヴィキなどで構成されている。
レーニンが4月に帰国し「4月テーゼ」を発表。アナキストを使って市内でデモを扇動。その時のスローガンは「即時停戦」「臨時政府打倒」「すべての権力をソヴェトへ」。7月3−7日の武装デモの鎮圧に臨時政府が失敗。それまで少数派だったボリシェヴィキが9月9日のソヴェト大会で多数派になる。。ボリシェヴィキが行ったのは、各所のソヴェトにアナキスト、党員を派遣して、ボリシェヴィキ支持の決議を上げたこと。あしなみがそろわないところに、軍部のコルニーコフの反乱がおき、クーデターが失敗。そして10月革命にいたる(ここはジョン・リード「世界をゆるがした十日間」(岩波文庫)で詳述)。
・10月革命で臨時政府を追い出し、ボリシェヴィキを多数派とするソヴェトが成立。ここから党の専制が始まる。1919年コミンテルン設立。農村徴発。クロンシュタットの反乱の鎮圧。翌年に一党独裁体制。1922年にボリシェヴィキ以外のパージが始まり、GPU設立。それを可能にしたのは、トロツキーの組織した赤軍の暴力がある。
(本書の執筆にトロツキーロシア革命史」を参照しているようだ。)
 レーニンの組織論は、職業革命家の秘密組織、強力な中央集権、党と政府の一体化、労働者と兵士を支持基盤とするあたり。なので、武装闘争は躊躇しないし、敵対党派は排除し、下から構成される組織に党員やシンパを送ってヘゲモニーを握る。極度に別の党派や分派を嫌い、人民戦線のような協調路線を回避する。権力を握ると、抑圧的にふるまう。そこらの病弊は、スターリン時代になってからと考えることが多いが、こうやって革命史をひも解くと、レーニントロツキーの時代からそうだったわけだね。歴史のifでレーニンが1922年に病気で倒れなかったらとか、トロツキーが政権を掌握していたら、というのがささやかれたりしたが、こうしてみると、実際の歴史をそれほど変わりはしなかった。そんな妄想を持った。
 そのあたりのレーニン共産主義への批判意識は著者も持っていたのか、最後のページはスターリンによるトロツキー暗殺だった。