odd_hatchの読書ノート

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荒井献「イエス・キリスト 上」(講談社学術文庫)

 小学校3年生のときに「ヨハネによる福音書」をもらって読んでから、イエスは気になる人だった。折に触れて福音書を読み直しているが、謎めいているのには変わりない。この人がとても重要であるのはわかるのだが、自分とのかかわりをどのようにまとめていけばよいのか手がかりがないのだ。
 それは自分一人のことではないらしく、この本でも「イエスを語ることは自分を語ることだ」、さらに変形して「イエスを語ることはイエスによって変えられた自分を語ることである」と言っている。イエスを語ることが、自分語りになる、その境目を見極めて適切な位置を保つのは容易なことではないらしい。なにしろ、イエスの言行の解釈はローマ・カソリック教会、ギリシャ正教会プロテスタントイングランド国教会コプト・シリアなどの国民正教会などに分かれていて、その中の分派がいったいいくつになるのか、そのうえ無教会派の人たちが研究会を開いているとなると、いったいいくつのイエスとキリストがいるのか、。そのうえ、著者のような学問研究によって開示されるイエス像もまた次々とアップデートされていくのであり、呆然と立ちすくむしかない。

 このような混乱は、自分のことを棚に上げておくとすると、イエスが思想や行動を記録に残しておかなかったことと、キリスト教を立ち上げた人たちの思惑がたぶんにテキストに反映していること。そのために、著者は「イエスに抗うキリスト教」と「キリスト教に抗うイエス」が共存しているという。紀元0年ころのパレスチナは、ローマ帝国の属領。ローマの施政官が派遣され、その地の有力者が統治していた。そこには同じ民族・宗教の中で格差や差別が厳然としてあった。そのような場所でイエスは活動をしたのだが、死後さまざまな教団が生まれ、ユダヤ人以外の、あるいは富裕者たちが信者になるにつれて、彼らの生活を反映するような解釈や力点が置かれるようになってきた。それがイエスキリスト教のずれになってくる。
 当時のパレスチナとローマの統治は、たとえば弓削達「世界の歴史05 ローマ帝国とキリスト教」(河出文庫)で補完できる。
 それは大きくは以下の二点においてか。なお、これは自分の理解なので、著者の考えとはずれているかもしれない。
1.「罪人」の意味するところが、1)「地の民」(被差別者)に押し付けられたユダヤ教の律法違反に由来する罪(なにしろ律法は厳しくて、貧民や病人には順守できないのであった)、2)人間の内部に巣食う悪魔的力としての罪、がある。どちらを重視するか。
(自分の内部に悪魔的力があるのは自覚している。とはいえ、悪を行動に移し、他者危害や人権侵害などを行うかというと、それには、信仰や宗教とは別の抑制機能があると思っている。それに内面の悪を完全に克服する可能性はないだろうし、内面の悪を持ち続けることで「死後の裁き」を受け入れなければならないというのも受け入れがたい。死後は無で空虚だと思っているから。なので、「罪人」は自分にとっては、差別や格差などの社会問題として意味があると考える。)
2.福音書には、イエスの言行録と、受難と復活の物語がある。どちらを重視するか。
(オーソドックスな教会では、受難と復活を重視する。その核心は信仰告白に見られ、イエスが主であること・死人の中から甦らしたことを信仰することにある。なぜ復活が重要であるかというと、イエスは無資格者(ユダヤ教の律法を守らないものなど)とともに生きたがゆえに処刑され、神に捨てられた(死の直前の言葉を思い出そう)とみえたイエスが神の決定的な「然り」を宣したところ。そのようなイエスを信仰することによって、自己が救済される契機となるということなのだろう。科学の時代に生きる自分としては、処女懐妊にしろ死者の蘇りにしろ「事実」であるとは全く思わなく、それは著者においても「処女懐妊」や奇跡が事実であると認める神学者はいないと指摘される。とすると、信仰は「奇跡」を介したものではなく、「宗教的実存的自覚」として現れるのだろうなあ。)
 ( )の中に入れた自分語りにあるように、<この私>に意味があるのは、あるいは<この私>の批判者として表れるのは、「罪人」や「無資格者」とともに生きたイエスであって、イエスの言行のほうに興味を持つことになる。

  

2015/01/06 荒井献「イエス・キリスト 下」(講談社学術文庫)に続く