odd_hatchの読書ノート

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荒井献「トマスによる福音書」(講談社学術文庫)

 一般にはイエスの死と復活は歴史の果てで実現する最後の審判から「神の国」への入来までを準備するものとされるが、別の解釈ではイエスの死と復活によってそれまでの悪霊・罪・死の力が取り払われて、彼を信じることによって死後直ちにキリストのもとに赴くとされる。後者の解釈の場合重要なのはイエスの業ではなく言葉(知恵)であるとされる。これを徹底すると、必ずしも「処女降誕」や復活を信条告白する必要がなくなる。
 そういう考えを持ったのがグノーシス主義。20世紀末からサブカルで注目されるようになった。PKDの小説だったり、映画「マトリックス」だったり、指揮者チェリビダッケが信者であると告白したり。そこで、手軽に入手できるグノーシス文献を読むことにする。

 「トマスによる福音書」はエジプトのナグ・ハマディで1945年に発見された羊皮紙の写本群。その中から発見された。もともとは150年ごろに東シリアでギリシャ語で書かれたと思われる。その後エジプトでコプト語に翻訳され、写本はその一つと推定されている。内容は共感福音書、Q資料と重なるところもあれば、それ以前の伝承を含んでいる可能性もあるという。エジプトで見つかったのはグノーシス派が2−3世紀にその地で隆盛したからだろう。ただ、グノーシス派は正統教会の教えに反するところが多かったので、異端として扱われた。
 さてグノーシス派の考えを理念的にまとめると(さまざまな宗派がそれぞれ異なる主張をしているため)、以下のようになる。至高者(原父、父、霊)が知恵(女性的属性)と子の三位一体をなした上界がある。女性的属性は至高者を離れて中間界に堕落。そこから諸権威、支配者たちを生む。支配者たちの長であるデーミウールゴスが至高者と知らずに下界と人間を生んだ。しかし人間は女性的属性を通じて至高者の本質を確保している。通常の人間は至高者の本質を知らず忘却し無知の虜になっている。そこに至高者は下界に「子」を啓示者として遣わし、人間に本質を啓示した。そこで人間は本質に目覚め、自己を認識(グノーシス)して上界に帰界する。そうすると、中間界・下界は解体されて上界の本質に合一することができる(なぜ人間のこの世がそのように倒錯したのかというと、デーミウールゴスが「狂っている」からと説明されることがある)。
 人間は創造者・支配者・形成者によって本質から疎外されているために啓示は、待っていても訪れない。人間の救済は究極的存在からの「呼びかけ」により、自己を想起し、自己に目覚め、自己が元来究極的存在と本質的に同一であることを認識する。この呼びかけはイエスによってなされる。目指すところは本質の認識であり、単独者となること。それは二つの意味があり、血縁的同族関係から離脱して「覚知」を目指す同朋関係を築くこと、原初の単独性(「小さな子供」や両性具有)を回復すること。なので、家族を捨て、肉体・性・財産などの「この世」的なるもの一切を捨てる(厳しい禁欲主義が必要)。「覚知」に至るには、イエスの語録のような言葉から隠された意味を解釈し、理解と組織化を独自で行うことになる。メンターの指導が必要で、言葉は隠されていなければならないからグノーシス主義セクト的秘教主義をとることになる(なのでキリスト教正統教会から性的放埓な集団とみなされたりした)。
 グノーシス主義が成立した社会的基盤は、ローマ政府によって禁治産宣告をされた属州の有産知識層を見なされるらしい(「新約聖書外伝」講談社文芸文庫P21)。なるほどイエスのいた場所とは異なるし、共感福音書の成立した社会層とも少し異なる(「ヨハネによる福音書」の教団とは重なるらしい)。キリスト教から分派したもの、ではないということだ。なので、グノーシス主義には、処女降誕や受難とその復活、あるいは種々の奇跡などイエスの業を重視しないところがある。
 こういう考えになるらしい。うーん、キリスト教ですらよくわからないのに、グノーシス主義はさらにわからないぞ。人間の現存在が拒否されている、そしてそこから救済(自己回復)するには世界を否定しなければならないという悲壮なほどのペシミズム。キリスト教関係者からすると、グノーシス主義キリスト教の信条告白などの基本教義に対する強い批判者であるから、その批判をのりこえなければならないという意味はあるのだろうな。現代のサブカルがこれに魅せられているのは、社会からの疎外感と未来へのペシミズムにあるのかしら。あんまり深くかかわるとPKDみたいにヘンテコ教義をねつ造することになりそう。好事家だけが読めばいいです。自分も第II部「トマス福音書のイエス語録」の、執拗で、細かい、解釈と説明を読みきることはできませんでした。