odd_hatchの読書ノート

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荒井献「イエス・キリスト 下」(講談社学術文庫)

2015/01/05 荒井献「イエス・キリスト 上」(講談社学術文庫)の続き

 教団ではなくイエスに遡ろうとしても、それは難しい。すなわちイエス本人は記録を残していないし、同時代の施政官であるローマ側の資料にも、イエスの批判したユダヤ教文書にもイエスの活動は記録されていない。残されているのは、複数の福音書使徒行伝であるが、これはイエスの死後50年以上経過してから編纂されたもの。
 そのうえ、この国に住む者には紀元0年前後のパレスチナの様子がまずわからない。参考になるのは、佐藤研「聖書時代史 新約編」(岩波現代文庫)あたり。それでもこの砂漠の地でどのように生活するか、さらにはユダヤ教の律法が生活を激しく規定していることや、ローマの属国であり差別が日常的であった事態を理解するのは困難。

 この本によると、当時のユダヤ人はヘブライ語を読み、コプト語をしゃべる。ギリシャ語は支配者の言葉であった。福音書はシリア語やギリシャ語で書かれていて(なので福音書記者はユダヤ人とは別のグループ:知識人や富裕層など、と推定されている)、その言葉と日本語の違いもまた理解を困難にする。しかも教団によって別の言葉に訳されることがある。
(余談になるが、聖書の中に予言を見出すものがいるが、彼らがコプト語ギリシャ語までさかのぼって検討した例を知らない。彼らはたいてい翻訳された聖書を使う。まあ、自分はその時点で彼らの主張する「予言」を笑止と思うし、主張するものらは本気で研究していないと考える。)
 さて、福音書も知られているのは4つだが、これはのちの公会議で採用されたものであって、福音書の名の付くものは30を超えるくらいあるのではないか(「新約聖書外伝」(講談社学芸文庫)に20冊くらいがリストアップ)。そのうち、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4つが正式とされるもので紀元60-80年に造られたとされる。書かれた言葉や内容によって、著者はそれぞれ別の人(マタイやマルコが実在かどうか、彼が書いたかどうかの疑いがある)で、場所も異なる。その中でヨハネを除く3書が思想や資料が共通していることから共感福音書と呼ばれる。ただ、3つの福音書もその背後にはそれぞれの教団があり、イエスの業や語録の伝承はさまざまだった。だから内容は少しずつ異なる。史実といえるのは、イエスという男がいたことと、正味2年の布教活動をしたこと、十字架刑で処刑されたこと、この3つ。ほかは伝承や旧約聖書の引用でできている。
 福音書を書いた教団の支持者の層に応じてイエスの描き方も異なるという事情がある。有名な「99匹の羊と1匹の羊」の譬でも、福音書ごとに語句の異同があり、意味するところが少しずつ異なる。どの福音書に依拠するかで、イエスの姿も異なってくる。それもまた「イエスを語ることは自分を語ることである」と示してしまうことになるのだ。
 福音書の成立は、二資料仮説が有力で、マルコ福音書が最古。マタイとルカはイエスの業をマルコから、イエスの言葉を別の語録資料(Q)からとり、それぞれ固有の特殊資料を使って書いたとされる。ヨハネは90年後半の成立で、構成が異なり別の視座で作られたとされる。語録資料Qは復元が試みられていて、そこから独自のイエス像を見出すものもいる(それも研究者によってさまざまで、預言者・黙示家とするものから知恵の語録とみるものまで、ユダヤ性を強調するものからコスモポリタニズムを強調するものまで。自分が読んだことのあるのは、バートン・L・マック「失われた福音書」(青土社)のみ。)。特殊資料やイエスの業などには民間伝承や旧約聖書からとられたないし模した伝承が含まれている。どこまでがイエスの言葉か、どれが伝承になるのか、どこが福音書記者の編集や追加になるのかは細部にわたって検証されている。そこを注意しないと、イエス本人とその後に追加編集されたイエス像が区別できない。このようなブッキッシュな興味とトリビアな話題。自分はそれなりに楽しめるほうだけど、細部にこだわるとへこたれる(下巻の対照表を逐一読み取るほどの根気を持てなかった)。
 その中で自分が注目するのは、罪人(らい病、精神病患者などは本人はもちろんそれに触れた人までも穢れがあるとされる)にこそ神に近いとか、社会的日常生活の外にいる人(罪人のほか、貧者・老人・取税人など)にむけて飛び出せというイエスの呼びかけ。それ自体が当時のユダヤ教に対するラディカルな批判だし、ローマによる二重統治に対する批判になるところ。そのうえで家族など共同体から離れてあえて放浪者(自由ではあっても社会保障の圏外にでることだ)であるところ。そのようなイエスの呼びかけは現在の問題にも有効である一方で、さてどこまでラディカルな実践を行うのかという問いにもなる。そこのところを下手に読むと、宗教共同体の規範に自己を埋没して社会危害を加える可能性もあるし、一方で無視すると社会の問題を無視して差別や格差を容認することにもなる。難しい。
(まあ、近代社会や国民国家は、そのような問題に個が直接関係するのではなく、社会や国家が社会保障を実行したり、人権を優先する規範をつくるようにしてきた。そのような方向の社会改善や改革のほうが個の決意の表明や投企なしに問題を解決しやすいということができる。ただ、社会や国家が社会保障や人権を確立するようにする動機に、宗教が果たした役割は大きいと思う。)

  
<参考エントリー>
2015/01/07 荒井献「トマスによる福音書」(講談社学術文庫)