odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

保坂正康「六〇年安保闘争」(講談社現代新書) 日本の対米従属を決定つけた1960年の日米安全保障条約締結阻止闘争の概要。

 この本が出たのは1985年(奥付は1986年1月)。60年安保から25周年という企画だった。当時の朝日ジャーナルの記事だったと思うが、あるラジオ局が60年安保のドラマを流した。そのあと、闘争に参加した人たち(当時40-50代)と若者(20代)が対談することになっていたが、若者は女の子と話をするのに夢中でドラマを聞いていなかった。「ふまじめ」「不謹慎」などいろいろ非難されたのだという。仕方ないなあ、と思うのは、闘争は生まれる前の出来事で、学校教育で安保の経験を聞くことはなかったし、経緯を説明する本もめったになかった。

 さて、1945年の敗戦でアメリカ軍が占領したあと、この国の軍隊は解体させられた。当時の東アジアでは最大の脅威であったわけで、非軍国主義の方針で取られた施策のひとつ。状況が変わったのは、1949年の中国革命と朝鮮戦争勃発。そして米ソの冷戦。とくに朝鮮戦争は日本に駐留していたアメリカ軍を移動するやり方だったので、東アジアの米軍が手薄になることが懸念された。しかし、昭和22年に施行された日本国憲法では戦争放棄が記載されている。「陸海空軍その他の戦力」を保持しないとし、「国の交戦権」を認めないというわけだ。そこで、この国は「警察予備隊」を創設。あわせて日米で安全保障条約を調印し、1952年にサンフランシスコ講和会議で占領状態が終了した。
 このときの安全保障条約は10年間の期限付きであり、1958年ころから破棄するか継続するかの議論が起きた。反対する側の論理はこの本によると、1)アメリカ軍の駐留を一方的に容認している(この国の法律が適用されないとか土地を収用されたが補償されていないものが多数いるとか)、2)極東でのアメリカの軍事行動で紛争が起きたばあい否応なしにまきこまれる、3)ソ連や中国を敵視していて世界平和を崩している、など。また運用にあたってもアメリカ軍が駐留するには事前協議が必要となっているが具体的な方法がなく、この国にチェックや査察の権利がない(ベトナム戦争のころに沖縄に寄航した米軍空母が原水爆を搭載していて事前協議も通告もなかったことが1980年代に明らかにされている。この国の非核三原則アメリカは無視したわけだね。当時の為政者もアメリカに監査を要求しなかったという怠慢だったわけだね)。「極東」の範囲も日米政府間で合意がないことも問題(当時はホルムズ海峡は日米安保の対象範囲外であるという認識)。この安保条約ではアメリカが極東で軍事行動するためにこの国を使うことに従属的に同意して、協力することになった。これが独立国家のあり方であるのかというのが批判の内容。
 自分が思うのは、戦争に巻き込まれることを強調する(それは当時の国民の大多数が近親者を戦争で亡くしたり自身が傷ついたり、戦後の物資の欠乏・インフレ・雇用不足などを経験しているから自然な感情)が、この国の人々が他国民を殺し、他国の資産を破壊した行為に思いを至らせていないのが、ちょっと不満。戦争や災害で難民になったり、インフラが破壊されて困っている人たちを助けるのではなく、戦争は人を殺し環境とインフラを破壊するのだよ。それを自分自身が行ったり、知人友人に押し付けるのは許せないと思うのだが。
 一方、安保条約を継続したい人たちもいた。条約の片務性や従属性を修正して相互性の強いものにしたいという考え(それは軍隊を持つこととセット)。ただ、安保を継続したい自民党の中でも意見は割れていて、吉田茂のように従属性は飲んでかわりに経済発展に資金を回したいという立場もあれば、非主流派には永世中立を目指す考えもあった。この議論をするようになった1958年の岸信介はもっとも強硬な相互性契約にする考えの持ち主。このひとは戦前に東条英機内閣時代の商工大臣をつとめ、戦後A級戦犯被疑者として3年半拘留。無罪放免されたのち、1953年から政治活動を再開。1956年に首相についた。戦前戦中は革新官僚と目されていた。強い反共主義者であり、権力主義志向で、反民主主義。そのためか、党内を調整して意見を操作するより、自分の意思を貫き手続きを無視するやり方をとった。こののちでも国会や議会で答弁を自分の都合で打ち切るとか、国会に警官を導入して野党議員を強制排除するとか、議場混乱のまま強行採決をするとか、メディアの報道を不快とするとか、こわもてのやり方で民主主義を破壊していった。いうに及ばずだが、岸信介の孫が安倍晋三
 敗戦後、アメリカは占領軍を通じて、民主主義を実現する施策を行い、義務教育で民主主義を教えるようにした。それは戦前戦中の権威的なこの国の<システム>に不満を持っていた多数に人々に支持されていた。政党も民主主義を掲げていた。にもかかわらず、民主主義を否定するやり方を政権党がとり、その指示で警官ほかが暴力をふるうことに、怒りが起きた。

 当時のニュース映像を編集したものがあるので、参考に。
 1960年 昭和35年を振り返る
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