odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

江戸川乱歩「緑衣の鬼」(角川文庫) フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」の翻案。事件が起こりすぎで意図がみえやすくなったかも。

 いくつかの版があるが、ここでは角川文庫のもので読んだ。宮田雅之のカバーが素敵。

緑衣の鬼 ・・・ 夕刻の銀座で突如サーチライトが一人の若い女性に向けられる。そこには巨大な手の影が彼女を押しつぶそうとするかのように。それ以来、女性・笹崎芳枝に奇怪な出来事が相次ぐ。彼女は童話作家・笹崎静雄と結婚していたのだが、この偏屈な夫が友人・夏目太郎によって密室で殺害された。一人ぼっちの芳枝は、太郎の父・菊次郎のやっかいになり、伊豆の別荘にひっそりと暮らしていたが、ある日、菊次郎は小船で出かけた後、そのまま消息を絶ち、死体となって発見された。伊豆に来る時、芳枝はさらわれ、廃居になった水族館の水槽に投げ込まれ、それを行った怪人・緑衣の鬼は二人の青年に追いかけるなか、出口をふさがれた水族館からこつ然と姿を消す。ここで芳枝に手を差し伸べたのは山崎青年。美貌の青年と芳枝は恋におち、結婚を誓う。そして菊次郎の兄、菊太郎。この老人は紀州で粘菌の研究をするという独身博物学者。女中と一緒に田舎暮らしというのは南方熊楠がモデルだね。彼ほど奇人ではないが。なにしろ、菊次郎が事業に励んだおかげで、菊太郎は巨万の富をもち、係累がいないから芳枝に相続するつもりになっていた。遺言状がないので、そのままでは民法とおりに遺産を分配するしかないが。紀州の屋敷でも、怪人・緑衣の鬼は芳枝につきまとい、何度も姿を見せ、探偵として乗り込んだ大江白虹らの捜索する中、密室から姿をけし、地下道で消え失せ、それでいて屋敷の窓に姿を見せる。ここに至って、菊太郎氏は名探偵・乗杉竜平に出馬を要請。明智小五郎ほどスマートではないが、伊達さと派手さでは引けを取らないこの探偵、おかしな挙動ばかりで、ついには白虹から犯人ではないかと目されるに至る。そして、乗杉氏が屋敷を離れた夜、菊太郎に惨劇が起こる。
 フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」1922年のプロットを借りて、1936年に「講談倶楽部」に連載。フィルポッツの作は、戦後に著者の編んだ探偵小説ベスト30で黄金時代の1位を与えるほどに高く評価した。なるほど、事件の構図がこのようだという思い込みを随所にみせて、最後にひっくり返すそのプロットは素晴らしい。初読の中学生のときには、みごとにひっかかりましたよ、感銘しましたよ。今の読者には事件が起こり過ぎて、意図がみえやすくなるかもね。フィルポッツの原作では重厚長大な文章と悠々としたストーリー展開がそれをみえにくくしていた。乱歩のものだと、雑誌読者の興味をひかなければならない分、駆け足になるのがちょっと。なるほど文章そのものがトリックを隠しているというわけだ。
 自分は乱歩の通俗長編ではベスト3にいれたいくらいに好きな作品だが、これで生涯6回目の再読となると、興味が持続しなかった。「吸血鬼」くらいのサービスがあればなあ。
 ラストシーンは、同じ作者の「化人幻戯」坂口安吾「不連続殺人事件」と読み比べられたし。
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指輪 ・・・ 車中に乗り合わせたスリ二人。かつて検札にあって、盗んだばかりの指輪をどこに隠したのか、丁々発止の会話。


地獄風景 ・・・ 喜多川治良右衛門なる青年が贅を凝らして、遊園地を作った。そこには、7人の悪友男女が痴態の限りを尽くしている。桃源郷か酒池肉林か、そのような幻想の郷に殺戮の嵐。迷路の奥で青年が刺殺され、メリーゴーラウンドで遊ぶ青年が射殺され、気球につかまった女性が墜落死する。迷路で瞬間姿を見せた小人が唯一の犯人像。そして、カーニバル祭の日、皆殺しをするという脅しが入る。それにかまわぬ高等遊民どもは、治良右衛門の案出したゲームに興じていく。
 1931年の作。舞台は「パノラマ島奇談」。前作では書き足りなかった乱歩の桃源郷の夢が存分に語られる。青年たちが裸で遊ぶのは、フリッツ・ラングメトロポリス」のヨシハラを想起させ、のちの1936年の「民族の祭典」の冒頭のイメージに重なった。そして7名が順次殺されていくさまは、パニック・スプラッシュホラーの、そうだな「13日の金曜日」を思わせる。地獄のカーニバルはスレイド「髑髏島の惨劇」のごとき、およそリアリティのない殺人遊具のパレード。ここでも奇妙な遊具が人体を破壊する様に倒錯の酔いを感じる。作者の好きな月岡芳年の残虐絵をみているかのよう。ここまで来ると、誰が犯人かはどうでもよく、血しぶきのあがるごとに悦楽を感じればよい。
 早すぎたスプラッシュホラーとでもいうのかな。血しぶきに死体がならぶさまが陰惨にならず、むしろユーモラスであるというのが、作者の夢であり、だからこそいまだに読めるものになっている。