ほぼ30年ぶりの再読で、(経験はしなかったが実感できる)1970年代初頭の末期全共闘運動のざらついた挫折の雰囲気を思い出した。いっぽうで、20代半ばの読書ではあれほど若者の「自分の物語」と思っていたのが、老年にいたると若者の「自分勝手な物語」に読めることに、落胆とも諦念ともいえる苦い気持ちになる。
弥生時代の遺跡の発掘中、「古代文字」が発見される。現場の調査中に同行していた作家が事故死したために、「ぼく(島津圭助)」は大学から排除された。そこを、ロジャー・エンタープライズにスカウトされ、古代文字の研究にとりかかる。なにしろ1970年代には、80万語の辞書を備えた連想コンピューターは企業か大学にしかなく、連続使用する許可を得るのはとても困難(使用したい研究者の予約がずっと先まで埋まっているので)。「古代文字」というものの解読の可能性はない。わかったのは論理記号を2つか持たず、関係代名詞が13も連結していること。これは人間の自然言語にはあり得ない(コンピューター言語でも無理だろうな、後者はともかく前者ではアルゴリズムをつくれないだろう)。すると、「古代文字」をつくったのは神? この神は人間を、世界を愛さないのだろう。
「ぼく」の身辺には奇怪なことがおこる。古代文字を解読しようと試みるのは、この企業だけではなく、「オデッサ」と呼ばれるナチスの残党、それにCIA、さらには「神」の神意をうけて解読の試みを挫折させることをミッションにする闇のチーム。彼らは「僕」の研究成果を横取りし、「神」に最初にコンタクトすることを試みている。たぶん桁外れの権力を得られるからだ。反抗する「ぼく」を援助するのは、数十年前に「神」の啓示をもち、その実在に会うことに執念を持つ老人とその一党(そこには美貌の霊能少女がいて、あまりのいたいたしさと純粋さで「ぼく」を魅了する)。「ぼく」は「神」の真意である世界の滅ぼしを挫折させるために、勝ち目のない闘争にでることにする。
まあ、状況を少し変えたコリン・ウィルソン「賢者の石」だな。世界は神の意思で作られたものであるが、神は狂っているか意地が悪いかで、作った世界を破壊しようとしている。となると、「われわれ」の使命は「神」を凌駕するか、「神」が世界を破滅する前にこの世を超越する存在に自らを「革命」しなければならない、というわけだ。
なるほど、若いときに似たようなことを考えたものだ。まず「ぼく」がいる。なぜか社会や世界とうまくやっていけない。「ぼく」はユニークで、純粋で、倫理的に高潔で、他人には理解できないだろうが特殊でしかし普遍的な能力を持っているのに。そのような「ぼく」を受け入れない世界や社会は「ぼく」の意図を挫折させようとする悪意のかたまりであり、彼らは「ぼく」の行く先々で邪魔をしている。彼らは巨大なグループで、人々が理解していない世界の秘密を知っていて、いつかこの社会を転覆する行動を起こすであろう。「ぼく」は彼らと戦う能力と意思を生まれながらに備えた特別な存在であり、世界を回復する闘争を行わねばならない。おそらくその闘争の途上には、「ぼく」の真意を受け入れる美しい異性がいて、その人を合一することが世界を救う鍵になる。それ以外の人間は「ぼく」の意図を理解しない救うに値しない存在であり、使命を達成するための手段なのだ。そのため犠牲が生じるかもしれないが、「ぼく」の崇高な使命や動機の前では、塵ほどの価値を持たない・・・。
ああ、こういう独我論というか唯我論は我々が若いころにもつような心理であり、それ自体は珍しいものではない。この小説は作者23歳の時に書かれたというから、当時の作者の世界認識や存在理由はこんなふうに構築されていて、それがそのまま小説になったのだろう。そこにおいては三島由紀夫「仮面の告白」、太宰治「人間失格」、ラディゲ「肉体の悪魔」などの若い作家の作品や、もっと年上の人に書かれたが独我論においては比類のないドストエフスキー「地下生活者の手記」などとそれほど遠いところにあるわけではない。過大な自意識が「ぼく」の特権性を少ない語彙と内面描写で語ろうとしているだけだ。特権性がとてもよくわかるのは、主人公の「ぼく」はつねに受け身で、自分で状況を開拓したり、社会に投企したりをまったくしないところ。なのに謎と不可解は向うからやってきて、「ぼく」は翻弄されるも、少ない言葉を語るだけで、介入してくる他人は「ぼく」の要求をのみ、感嘆の言葉を発する。「ぼく」が主体的に選ぶことはなく、状況に流されているだけ。
この小説の最後で「ぼく」は神との永久闘争を決意するのだが、そこまでの心理的な「冒険」(特権的な存在であることを知らされる、重要な人をなくす、とりわけ愛が挫折する、など)がテーマであるわけ。決意することが重要であって、成果やパフォーマンスは評価の対象外。うーん、この心理のままでビジネスをするようになると大変だぞ。Twitterでフォローしている人に、小説の主人公にそっくりな心理の持ち主がいて(年齢も同じくらい)、この小説の「ぼく」に似たつぶやきをしている。ひやひやしながら読んでいるのだけど、さまざまな挫折や失敗をしてプロや大人になるだろうから、介入せずに見守るにとどめることにする。介入すればホルヘ・ルイス・ボルヘス「他者@砂の本」と同じことになるだろうから(かつての俺もそう思われていたのだろうなあ)。
この小説の主人公「ぼく」の自意識はその優れた能力(記号論理学とか言語学とかITとかのエキスパート)のために、挫折があと送りされている。それは自分の認識や思考の問題を隠し、失敗の理由を追究しないようになっているので、不適合や障害の原因が社会や世界の側にあるとずっと思い込むことになりかねない。そこに陰謀論や差別思想も入り込む。この小説でもナチスの残党とか「神仙石壁記」なるトンデモ本とか巨大企業の世界征服計画とかがでてくる。ことに「世界を愛さない(狂った)神」が宇宙的な陰謀を企んでいるという妄想。誰も知らない世界の秘密を自分(と少数の仲間)だけが知っているというのは、独我論とナルシズムとヒロイズムを膨れ上がさせる危険な罠なのだが、そこから陰謀論やトンデモ、ニセ科学、差別主義まではあと一歩。この小説はそこに踏み込んでいる。
「若者」のための小説であるのだが、あまりの生硬さとスノッブ趣味で読者を選ぶ。まあ、「大人」は読まなくていいだろう。1974年初出。