10代後半から20代前半の作曲となると、モーツァルトはもとより、ロッシーニ、シューベルト、ショパン、メンデルスゾーン、ビゼー、ブラームス、グリーグ、カリンニコフ、プロコフィエフ、ショスタコービッチなどそうそうたる名前と作品がすぐに浮かぶ。このような若書きの作品だけを集めた2−3夜のコンサートを制作したいものだが、金がない。
でもって、文学ではというと、この国でもいくつもの名前が浮かぶ。この作品はそういう範疇のひとつ。なるほど16歳の中学生から小説を書いていた人の24歳の作品であって、手練れではある。言葉をよく知っている。平仄のあう文体を書いている。主にギリシャ芸術のトリビアをよく知っている。自分のことに関しては心理分析も巧み。そのあたり発表当時の人も熱狂したのか、詳しい記憶はないのだが、たしか賞を受賞し、その年のベストセラーになり、大蔵省だったか法務省だったかの少壮役人からいち早く文化人に転身したのではなかったか。
まあ、この年齢であると、書くことは自分自身についてのほかにはなく、人生の経験がないとすると内面しかないのであれば、書くことのテーマは心理と性についてということになるか。ここにあるのはある種の露悪趣味であって、その時代(1949年:この記載方法は作家が怒るかな。でも最後の一文のあとの日付は西暦記述)であってはなるほど記述しにくいホモセクシュアルにオナニーであるとすると、それはそれでセンセーションになるか。まあ、その種の性の露悪であればランボーもラディゲもしていたっけ。それに上流階級で、下男下女書生が家にいて、インテリぶったスノッブな高校生があたりにうようよするとなると、彼らに嫌悪を示すことで自分を高めるという手法もそれなりにやくにたつ。同じくらいの年齢の作家が書いたさまざまな小説の中では、センチメンタリズムとロマンティシズムがないぶん読めるとしても、ナルシズムが蜜のようにだだもれているとなるとこれは自分の趣味ではない。
となると、あとは彼の心理分析ではあるが、まあ、タイトルにあるように「仮面」をかぶってことに処するという処世訓くらいが気になるところ。中学の同級生であろうと、大学の同級生であろうと、親戚つきあいからうまれた恋愛もどきの相手にしろ、娼窟の女にしろ、彼は仮面をかぶって「いいこ」であろうとする。ときにはその仮面も有効である。園子なる許嫁ともあいまいで婉曲な断りで、結婚から逃げることができ、官吏としてないし文化人として栄達を目指すのは容易になる。本人はいい気になっているが、小説を読むと底は浅い。せいぜいだませるのは徴兵検査の軍医くらい。本人は隠したつもりであっても、周囲にはだだもれで失笑の的であったろう。
無理に言えば、この国の「詐欺師」が書いた幼年の告白ということか。とはいえサルトル「一指導者の幼年時代」、マン「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」には及ぶべきもない(まあ年齢が年齢だけにね)。ここで正面きってみないで済ましたことのつけは20年後の1970年に払うことになったとすると、その遠因はここに書かれていることがわかる。
2015/07/09 三島由紀夫/東大全共闘「討論 美と共同体と東大闘争」(角川文庫)-1
以上、俺はこの小説が嫌い、ということを「告白」。