odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

マーカス・デュ・ソートイ「素数の音楽」(新潮文庫) 数学の話は自分にはさっぱりだったが、研究方法やスタイルが変わってきたことは興味深かった。

 素数は、自然数のうち正の約数が 1 と自分自身のみであるなので、理解は簡単。でも、どの数が素数なのか、どの程度の頻度で出現するのかを明らかにしようとすると途方に暮れる。たとえばこういう1000万(!)までの素数表をみるのは楽しい。素人目には、素数の出現には、なんのパターンもなく、ルールもなく、ノイズに思われる。
http://www.ysr.net.it-chiba.ac.jp/yashiro/sosu/
 最初にこのランダムで無秩序でのノイズな素数からハーモニーを見出したのは、19世紀の「数学界のワーグナー」リーマン(1826年9月17日 - 1866年7月20日)。彼の「リーマン予想」が証明できれば、素数の謎が解けると思われた。リーマン自身は証明できず(その数十年後に別の学者が試みたことが、遺稿をみるとすでに試されていたらしい。なんと先進的な思考をしていたのか。しかも遺稿の多くは家政婦のミスで焼却されたとか、重要なメモ帳が紛失したままとか、いろいろな謎が面白い)、1900年にヒルベルトが未解決の「23の問題」を提出したとき、リーマン予想があった。他の問題は解決したが、リーマン予想だけは100年以上経過した今でも唯一の未証明の問題になっている。それほど頑強な謎であり、人類の知性の頑強な壁になっている。すこしずつ知識は増えて、素数のハーモニーも聞き取れるようになってきた(なのでタイトルに「音楽」がついている)。そのうえ、素数は実生活やビジネスとは無関係な知的愉しみであると思われたのが、暗号解読やITセキュリティで使われるようになってきた(素数の積を計算するのは簡単だが、その逆の素因数分解はとても難しいから)。
 という数学の話は、自分にはなかなかわかりずらく(なにしろ「リーマン予想」とか「ゼータ関数」とか「ゼロ点」とかがさっぱりわからない)、「ふへえ」と口をあんぐりあけたままページをめくり、なまじな要約をすることもできない。なので、関係ないところでいくつかの気付いたところを

・数学は論理を重視するといっても「醜い世界と美しい世界のどちらか一つを選ぶとしたら、自然は常に美しい世界を選ぶ」「同様のデータを説明する仮説が二つある場合、より単純な方の仮説を選択せよ」のような「哲学」ないし選択基準がある。そういう哲学や選択基準からすると、素数は数学の美意識からの著しい逸脱。

素数の研究スタイルも次第に変わっていった。最初は、どの数字が素数であるか、あるいはある数が素数であるかを計算することに重きを置いていた。それが素数の振る舞いや存在の構造を見出すことにかわる。20世紀に素数を計算する式がみつかったが、変数が26もあるというもの。変数に自然数を入れて、計算結果がプラスであればその数は素数であるのだが、変数26個を入力して計算するのはばかばかしい。そのうえ式から発展する「世界」や問題がない。数学者の探求心に応えるトピックを産まない。なのでこの方法からのアプローチはやめた。しかし「リーマン予想」は違っていて、その説明のエレガンスさと謎深さから、その先に広い世界や問題をもっている。なので、いまだに人を魅了する。その違い。

・数学の研究方法が変わっていったのがこの本から解る。18世紀までは個人が行うもの。情報のやり取りは手紙と雑誌。19世紀には研究は個人で行うものだが、大学という研究組織に就職するようになり、次世代研究者育成の仕組みがつくられる。20世紀初頭には複数研究者の共同研究が行われ、20世紀半ばの戦争を契機にする科学者動員でプロジェクト化し、20世紀後半からコンピュータを使用する。この変遷は他の自然科学分野の変化より少し遅れているような感じだった。数学は紙と鉛筆があればできるという俗説があるように巨大装置や実験設備を必要としないことがたぶんその理由。また、数学にはしばしばあるようだが、問題を発見する人と解決する人が別であり、問題の提起と解決に長い時間がかかるのもその理由のひとつ。

・数学ではクーンの「科学革命」モデルは適用できないような気もした。自然科学ではある現象の説明原理をいくつも作れるから、その時代の制約や科学者集団の流行で「パラダイム」がつくられるのだが、数学は過去の証明の積み重ねなので現象の説明原理が複数できることはない(ようにみえる)。数学史に詳しくないので、自分は間違っているかも。

・数学史を書くと、エジプト、ギリシャから始まって膨大なものになるのだが(イスラムやインドや中国の数学史が無視されるのはなぜだろう)、この本では素数リーマン予想というふたつのトピックに限ることで、過去300年の数学史を上手く要約することができた。登場人物をリストアップするだけでもめくらめくような人たちが登場する。ラマルジャンのような異端の数学者や、チューリングゲーデルなどの別分野の人気者や、ブルバキのような構造主義(という範疇になるのだっけ? アンドレの紹介でシモーヌヴェイユ兄妹が出てくる)や、ラッセルやウィトゲンシュタインの哲学者に、ダイソンやファインマンの物理学者。さらにはナチス暗号解読プロジェクトや公開鍵暗号の話題にも触れる。そうしたうえで、数学や科学の考え方を説明する。みごとな啓蒙書。

 ただ、文庫版600ページにはへこたれた。英国でベストセラーになったそう(原著2003年刊)で、ベストセラーになる条件のひとつが大著であることだが、その条件には適合。でもときに冗長で、へこたれそうになった。400ページくらいに収まっていればなあ、とないものねだり。