odd_hatchの読書ノート

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筒井康隆「全集6」(新潮社)-1968年後半の短編「晋金太郎」「新宿祭」「わが良き狼」

 1968年後半の短編。

地獄図日本海因果 1968.08 ・・・ 突如北鮮艦隊が南下、警戒中の海保艦隊と遭遇。中共から買ったできそこないの小型原爆を使うと、時間を破壊して、そのあたりの海域をタイムスリップさせた。バルチック艦隊元寇などと海保が闘うはめに。ことが起きるとまず会議を開いて、状況分析に蘊蓄を披露するのはこの国の<システム>の病理だな。この年、テト攻勢が起きた。

わが愛の税務署 1968.08 ・・・ 納税額を増やすことが美徳とされる(そうすれば公務員にでかい態度をとれる)世界。今日は確定申告の締切日。

カラス 1968.09 ・・・ 高額治療費をとる病院が脳検査機を買ったら、鴉が集まってきて、患者が減ってしまった。不要な検査をして高額治療費を請求する病院が問題になっていた時代。

接着剤 1968 ・・・ 接着剤だけで五重塔をつくってみた。発表誌が「セメダイン・サークル」。そりゃ悪口は書けないねえ。

狸/酔いどれの帰宅 ・・・ ショートショート

わが家の戦士 1968.10 ・・・ 防衛産業に勤める「おれ」には、旧家の「隣の間」がある。武器輸出の商談がまとまるごとに、昇給・昇格するが、隣の間から局地戦の戦士がふいに現れる。ついに家族がターゲットになり、死者が出る。大きくは「おれ」の家は日本のメタファーだろう。戦争なのに家の外では日常があるのも、当時の社会のメタファーだろう。小さくは戦争と日常の表裏一体は作家のテーマで、これ以前にもたくさん書かれたし、このあともたくさん書かれた。

ヒッピー 1968.11 ・・・ 役所の横柄な出生係がヒッピーにてこずっている。これも当時の役人の様子。一方、意志の通じない「最悪の接触」テーマのひとつ。

雨乞い小町 1968.10 ・・・ 承和7年、おりからの干天に小野小町に雨乞いの儀式の命が下った。在原業平ほか京の文化人は、20世紀からやってきたという星右京なる怪しげな男の知恵でヨウ化銀を使った降雨装置をつくることにした。

小説「私小説」 1968.11 ・・・ 私小説の大家・能勢灸太郎、骨の髄からの小説家。彼の日常を淡々とつづる。

地下鉄の笑い 1968 ・・・ 「IQ140以上の人間にしかわからない、ユーモアのあるポスター」。50年前からこんなネタがあったのだねえ。

晋金太郎 1969.01 ・・・ テレビディレクターの家にライフルを持った殺人犯がのりこみ、人質をとった。それからテレビや新聞に電話をかけ、ディレクターとテレビ局の後押しで特別番組になり、一躍マスコミのヒーローになった。似たような事件があり、大江健三郎も「叫び声」に使っている。こちらではマスコミと文化人の軽薄さを笑う(自虐ギャグもあり)。

竹取物語 1969.1.3 ・・・ 120年ぶりに月政府は貿易再開することにした。月の特使になった「おれ」は美貌に自信があった。都筑道夫もこの時代に昔話や童話の読み替えをやっていたな。ちょっと前には石川淳も。そういうひとつ。

夜の政治と経済 1969.01 ・・・ 銀座のバーのホステス。予知夢を見ることができ、ママやパトロン、他のホステスなどにすっかりあてはまる。うまく泳いでいこう、と思う。男の心理が手に取るようにわかるというのは、のちの火田七瀬の先取り。

新宿祭 1969.01 ・・・ 1968年10月21日の新宿騒乱事件。以来、全共闘のデモは国民のカタルシスを解放するための国家的イベントになり、広告代理店が仕切るようになった。SSTで東京−ワシントン間が20分になる時代には、全共闘セクトもフーテンもヒッピーも人数不足で、仕出しにてんてこ舞いである。

わが良き狼 1969.02 ・・・ 全宇宙をまたにかけて悪漢を退治してきたルピナス・キッドが20年ぶりに故郷に帰ってきた。老衰期にはいった貧しい街には、おいぼれしかいない。でも、そこには懐かしい思い出が詰まっている。晩年のジョン・ウェインが出演した「ラスト・シューティスト」1976年の日本版。そこにスペース・オペラ風味を利かせる。「秒読み」@薬菜飯店のはるかな前駆。


 このころのテーマのひとつが「擬似イベント」。ネットで調べた定義によると、「メディアによって報道されることを期待して人為的に仕組まれ,現実に対する関係が曖昧で自己実現的な出来事。アメリカ合衆国の社会・歴史学者ダニエル・J.ブーアスティンの用語。」とのこと。
疑似イベント(ぎじイベント)とは - コトバンク
 この時代は、前衛芸術ではハプニング、ジャズやロックではインプロビゼーション(即興)など、行為者が事前の準備なくそのときの感興で表現を行おうという運動があった。あわせて、芸術がミュージアム、展覧会、コンサートホール、芝居小屋など、専用の会場で行われるものであったのをやめて、路上や日常の延長でやろうという運動もあった。さらには、学生運動セクトが街頭に飛び出して機動隊と衝突したり、駅や公園で集会をしたり、大学などの施設を占拠したり、バス・船・旅客機をジャックしたりもしていた。これらも事前の思惑を超えた突発的なできごと。拡大すれば、ベトナム戦争だって、あらかじめの計画通りに進行することはなく、偶発的な戦闘と泥沼化があった。
 そういう偶然・偶発、即興、当事者と観客の境の撤廃などが日常的に起きていた時代。そのこと自体が面白くて、入り込んでいった表現者もいたけれど(たとえば大島渚赤瀬川源平みたいに)、作家はもっとこねくり回して、路上のハプニングや偶発的なできごともなにものかがコントロールしたイベントであるとみなす。そうすると、全共闘のデモも、世界各地の戦闘も、ライフルを持った犯人の立てこもりも、平安時代の雨乞いの儀式も、メディアの報道を期待した「演劇」であるかもしれず、さらに発展させればメディア自体が仕掛けたものであるとみなす。偶発やハプニングや即興が人々を「ホット」にするものであるとすると、擬似イベントは人々を「クール」にする(ここらの用語はマクルーハン)。クールな感情は、理性を働かせ、利害関係のない公正な判断を下せる。「新宿祭」「わが家の戦士」を読んで、機動隊との衝突を目的にしたデモや戦争を単純によしとすることはできなくなるだろう(ビリーバーさんには通じないし、激怒するだろうが)。
 作者は、もう一つ罠をはっていて、擬似イベントを主催するメディアやマスコミの愚劣さや卑小さも書く。権力を持つ者を批判するものの権力をもっているのであって、それらの権力を相対化しているわけだ。