odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

筒井康隆「幻想の未来」((角川文庫)-1960年代の短編2「トーチカ」「しゃっくり」「東海道戦争」

 続いて1960年代前半の中短編。模索の時代。

下の世界 1963.05 ・・・ 肉体階級と精神階級に分離した社会。肉体階級から「上」に上がるためにトレーニングに励むトオル。いま-ここから脱出したい人の物語(「脱走と追跡のサンバ」「虚人たち」)

ブルドッグ 1963 ・・・ 飼い犬のブルドッグだけテレパスができるようになった。たくさん要求してくる。

陸族館 1963.07 ・・・ ある日目覚めたら、家が水没していて。

座敷ぼっこ 1963.09 ・・・ ある小学校の教師が座敷ぼっこがいるかもしれないという話をした。筒井版「ジェニーの肖像」で、「時をかける少女」の先駆。

群猫 1963.09 ・・・ 地下の下水管に住み込んだ猫(ミオ)と鼠とワニ(バクー)の世代間闘争。ある嵐の夜に、決戦。場所を変えたヴォークト「目的地アルファ・ケンタウリ」

給水塔の幽霊 1963.10 ・・・ 給水塔に幽霊が出るというので見に行った。

いじめないで 1964.01 ・・・ 核戦争で生き延びたアルコール耽溺の男が中央指令室のコンピュータと会話する。マゾヒスティックな機械の奇妙な欲望。

トーチカ 1964.05 ・・・ 火星で行われる合法的戦闘。参加しているガキの意識の流れ。一方で進行する地球最終戦争。「霊長類南へ」のエピソードになりそう。この文体や言語実験は、20年後のギブソンニューロマンサー」の翻訳で復活し、サイバーパンクの典型的な文体になった。傑作。

お紺昇天 1964.12 ・・・ 会話機能を持つ全自動運転自動車との別れ。女性の人格をもった機械へのフェイティシズムと、作家のアニマの投影。(ただ、この「私」の言動は、男のDV。そこは21世紀には違和感。)

しゃっくり 1965.01 ・・・ 朝の通勤時間に突然、8:41から8:52を繰り返すようになった。物理時間は後戻りするのに、人間の生理時間はそのまま進行する。時間のわなから脱出しようともがくが、できない。これものちのモチーフが詰まった傑作。

うるさがた 1960.05 ・・・ 冥王星の観測基地に一人。相手はコンピュータ。しかしこいつの機械的な口調が気に入らない。「いじめないで」の逆さ版。だから、長期隔離されるプロジェクトは一人ではだめだと・・・(違

ベルトウェーの女 1960.05 ・・・ 未来社会で初めて見初めた女性の正体。

無人警察 1960.06 ・・・ 未来都市で歩いていると、ロボットの警察官に尾行される。1980年代後半にこの作が教科書に取り上げられて、一部の記述を理由に問題にされた。管理社会の批判、プライバシーの制限の可能性などなどを考えさせるきっかけにする意図があったとみる。この出来の良くない作を選んだのがよくないし、人権や差別の基準が刻々と変化しているのに鈍感だった。(といって教科書向けの小説を選定したことがないので、代替作は思い浮かばない。)

星は生きている 1965.07 ・・・ 人跡未踏の星で犬の首を発見した。ゴヤの黒い部屋にある絵のような光景かな。

火星にきた男 1965.07 ・・・ 火星に住んでいると思い込んでいる男を見守る妻。最後の言葉のいずれが正しいか、決めるのは読者のあなたです。

東海道戦争 1965.07 ・・・ 理由不明で東日本と西日本で戦争が始まった。人はスペクタクルをみるために、志願し、前線にでて、モニター越しではない「本物」の戦争に出会う。「擬似イベント」に関する説明があるので、それを読めば意図はよくわかる。シリアスな文体で、ハチャメチャ、ドタバタを書くミスマッチ感、キッチュな猥雑さ。

幻想の未来 1964 ・・・ ホモ・サピエンスの絶滅した遥かな未来。残存思念が中空をただよい、テレパス能力を持つものは記憶遺伝を保持する。超歴史的な時間で、実体をもつ思念体はさまざまなコミュニケーションの実験をしつつ、滅びに向かう。思念体は懸命に「生」の意味や神を問うが、答えは帰らない。「霊長類南へ」や惑星クオールの殲滅戦の後に始まる話と思いなせえ。あるいは手塚治虫火の鳥 未来編」。あるいは神のでてこない光瀬龍百億の昼と千億の夜」。アマチュアがよくもまあ、こんな引用だらけの小説、思弁ばかりの小説を書いたものだ。ただし、個人的には生命には宇宙的な目的があるとか、惑星に意志があるとかの設定は好きではない。


 米ソ冷戦、核兵器の実験、ベルリンの壁キューバ危機、ベトナム戦争。近海ではソ連、韓国の領海を日本と相手国が相互に侵犯して違法操業、それによる国交の悪化。戦争の危機、人類絶滅の危機が身体的に感じられる時代。この時代は、核時代のような政治小説がよくでていていて、「霊長類南へ」のあとがきをみると、邦訳は全部読んでいたという。それを反映してか、戦争と絶滅のイメージが繰り返しでてくる。
 作家のユニークなところは、「擬似イベント」というテーマをみつけたこと。ネットで調べた定義によると、「メディアによって報道されることを期待して人為的に仕組まれ,現実に対する関係が曖昧で自己実現的な出来事。アメリカ合衆国の社会・歴史学者ダニエル・J.ブーアスティンの用語。」とのこと。
疑似イベント(ぎじイベント)とは - コトバンク
 このころの作だと「東海道戦争」「48億の妄想」に顕著。人為的に仕組まれているところに着目し、ハプニングであった一回限りのできごとが、繰り返されるイベントになり、仕掛ける側と参加する側の境界があいまいになり、それぞれの集合無意識みたいなものが正のフィードバックを働かせて膨張していく。それでいて仕掛ける側のコントロールが効いていて・・・という具合に、マスコミが「リアル」を伝えるほどにそのリアリティが失われていき、主体が消えていく。
 「擬似イベント」テーマは実際に起きているできごと(戦争、デモ、マスコミ、宗教団体など)を対象にしていたが、それを展開していくと、心理・無意識につながり、文章を書く作家と作品と読者の関係に及ぶ。コントロールしているものがその対象自体にコントロールされているかも、という発想は、文字・文体その他への偏愛を産み、たくさんの言語実験に至る。
 「幻想の未来」のようなニューウェーブSFに拘泥することも可能だったが(しかし当時は読者がいなかった。多数の読者がつくのは1970年代にはいってから)、中間雑誌や学習雑誌に足を延ばし、慣れぬジャンルに手を染め、批評家の悪意や無関心にひるまなかったことは、のち(とくに1980年代)の豊穣を産むことになった。読者にはなんと僥倖なことか。