odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

筒井康隆「家族八景」(新潮文庫)

 七瀬は幼少のころから人の心(というか内話)を読むことができた。彼女の能力は他の人を恐怖させ(なんて勘の良い子ならまだしも、自分の心を読まれたことを憎悪する)、「掛け金をはずす」「掛け金をおろす」ことを意識的に制御して、自分の能力が知られないようにしていた。18歳になって、七瀬はお手伝いさんになる。見知らぬ家庭をたくさん見聞きする。ときに、彼女は危機にあい、差別を受け、いじわるをされる。


無風地帯 ・・・ その家は「中の上」といえる4人家族。しかし、全員がそれぞれを軽蔑し、無視している。それを口に出すことはなく、ホームドラマのような無内容な会話を続ける。タイトルは七瀬が仕掛けた心理的な罠(男の隠して起きた秘密の一端を暴露)にも平然と聞き流すことから。でも、彼らからの嫌疑と憎悪を呼び出す。

澱の呪縛 ・・・ 夫婦に子供の13人の大家族。母以外は思春期の男。家に入った時から異臭がして、異様に不潔。七瀬が耐えられずに掃除をすると、それまで不潔であったことに鈍感であった家族の憎悪が七瀬に向けられる。(下着や靴下のエピソードは筒井家にあった実話に基づいている。「狂気の沙汰も金次第」だったか。)

青春讃歌 ・・・ 子供のいないインテリ夫婦。妻は年下の大学生と不倫している。ある晩、彼にふられて、酔っぱらって事故を起こす。夫に「もう若くない」「運動能力が落ちている」と叱責された妻は動揺する。若さにしがみつく賢い愚か者の妻、自分の責任を合理化しようとする夫の逡巡。

水蜜桃 ・・・ 60歳定年であるはずが55歳定年に切り替えられ、退職した爺さん。エネルギーはあるのに仕事にしか興味がなかったので、家でやることがなく自尊心のために再就職もできず、家中のものに疎まれている。はけ口は七瀬に向かい、夜這いをかけてくる。七瀬は言葉で逆襲する。発狂するまでの心理過程の描写がみごと。のちの「三人娘」では発狂させるまでの描写が大変といっていたが、それは内面を書けるか書けないか(というしばりを課したこと)にありそう。

紅蓮菩薩 ・・・ 幼児が生まれたばかりの大学助教授の家庭。夫は妻を馬鹿にし、妻は賢母であろうと演技する。夫は学生と情事を重ね、それを知っている妻は見ないふりをしている。夫は心理学の研究者。かつて七瀬の父(火田精一郎。七瀬17歳の時に死亡)でESP実験を行ったことがあり、七瀬にも実験をやらせようとする。

芝生は緑 ・・・ マンションに医師と建築設計士が隣り合って住んでいる。夫婦の仲は険悪で、それぞれが互いのパートナーに興味をもっている。医師の家政婦をしていた七瀬は建築設計士に手伝いにいくことになり、それぞれの夫婦の不倫願望をたきつける。その試みは成功したが、互いにばれたあとの夫婦のよりを戻すことは予期していなかった。

日曜画家 ・・・ 家庭ではほぼ無口の経理課長。日曜には抽象画を書いている。金にならない「仕事」をする夫に妻と息子は激しく憎悪し、バカにしている。七瀬は日曜画家が周囲の景色を抽象図形としてとらえていることに驚き、興味を持つ。休みをもらって仕事をしている夫を見に行き、幻滅する。

亡母渇仰 ・・・ 極端なマザコン(ということばは初出時にはなかった)の青年が、母の死によって周囲を呆れさせるほどの悲嘆を演じている。息子の未熟、その妻の冷淡、周囲の失笑。七瀬は20歳になり、周囲の男が性的関心をもって近寄るのに気付き、お手伝いを止めることを決意する(そして「七瀬ふたたび」に続く)。


 連載は1970-71年。単行本化は1972年。
 七瀬は自分がテレパスであると自覚したときから、社会の偏見や差別にあっていた。なので、エゴを振り回したり、自分探しをすることはない(そこは同時代の山田正紀「神狩り」角川文庫、あるいはウィルソン「賢者の石」創元推理文庫ステープルドン「オッド・ジョン」とは異なる。超能力は自己を肥大させることにはならないのだ)。しかし、他人の心理や内話を読めるのは自分の心労を増やし、他人の疑惑を呼ぶことになる。同じ集団や組織にとどまるほど危険が増すので、職場を転々としてもかまわない「お手伝いさん」を選ぶ。女性の大学進学率は低いころだったので、大学は選択肢にならない(というような昭和の女性への抑圧を思い出して、うっとうしく感じる)。
 お手伝いさんは他人の家庭のなかに侵入でき、彼らの秘密や謎に肉薄できる。そういうことができるのは、私立探偵くらいしかない(小川洋子「博士の愛した数式」のエントリー参照)。ここでも七瀬は防御のために他人の家庭の構成員の心理を読む。七瀬が仕事をする家庭は、都会の経済的な余裕のあるところばかりであり、はためには「幸福」である。最先端の家電をもち、七瀬に貸し与える部屋(たとえ3畳であっても)があり、高級取りの夫がいる。そのような読者寄りの少し上の階層が不満や憎悪を持っていることが七瀬の視点から報告される。プチブルジョアの幸福もその下や陰には上品さとはかけはなれた感情があるというわけだ。
(そういうところは、19世紀のイギリス怪奇小説や短編探偵小説が発見していったことと同じ。この国でプチブルジョアの欺瞞があからさまになってきたのは、イギリスに約1世紀遅れてことだとみていいのだろう。)
 七瀬が私立探偵と異なるのは依頼人がいないので、誰かの利害のために働くところがないこと。したがって、家庭の中で不和や憎悪が蓄積され、部外者たる七瀬が侵入してかき回すこと(とくに「澱の呪縛」「日曜画家」)で、沈殿して腐敗している淀みがまき散らされて、具体的な行動に発展する。それが爆発する直前になって、七瀬にも危機が生まれ(「水蜜桃」)、暇を得ることになる。探偵小説では事件が起きてから私立探偵が他人の家庭に侵入するのだが、七瀬の場合は事件がおこる「ゼロ時間@クリスティ」が近づいたところで家庭から離れる。七瀬の行動規範は自己防御にあるから、仕方がない。
 この部外者の利害に関係しないという論理は、七瀬の視点や行動に客観性を持たせる。さらに七瀬の一人称で書かれることが彼女の判断や行動の正当性を担保する。なので、読者は容易に七瀬に感情移入し、彼女に共感しようとする。だからときに彼女が他人の利害に踏み込むとき(「青春謳歌」で若作りの中年女性に自己認識させて事故を招かせる。「日曜画家」で画家の不倫相手を電話口に呼び出して、横領した金を返せと命令する。「亡母渇仰」で早すぎた埋葬に知らんぷりする。)でも、彼女の行為が「正義」であり「公正」を実現したものであると認めてしまう。内容を見ると、けっこうグレーゾーンにありそうな行為も含まれているが、読書中はきちんと検討しない。ここは読む側は注意深くならないと。「萌え」の感情で判断するのはすごく危険だな、と。

  


2017/10/27 筒井康隆「七瀬ふたたび」(新潮文庫) 1975年
2017/10/24 筒井康隆「エディプスの恋人」(新潮文庫) 1977年