odd_hatchの読書ノート

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笠井潔「オイディプス症候群」(光文社)-3 「閉ざされた山荘」「孤島」では探偵は被害者の一員に含まれてしまい、探偵の優位性や公平性が失われる。不可視の犯人=権力者の意思に探偵も自律的に犯人の規律に従う。

2013/09/27 笠井潔「オイディプス症候群」(光文社)-1
2013/09/30 笠井潔「オイディプス症候群」(光文社)-2


 ここでは「権力」が問題にされる。というのも「閉ざされた山荘」「孤島」では、犯人と被害者が同じ場所に閉じ込められ、逃げる場所がない。そうすると、オープンスペースである都市や田舎の事件では探偵は犯人を追いかける(マンハント)することになり、犯人に対して心理的な優位性を確保している。まあ利害関係のない第三者の公平性が担保されているとでもいえるのかな。しかし「閉ざされた山荘」「孤島」では探偵は被害者の一員に含まれてしまい、探偵の優位性や公平性が失われている。
 あるいはこうもいえるのか。「閉ざされた山荘」「孤島」は外と内の区別が厳然と存在している。内に閉ざされているメンバーは共同体の法や構成員のコモンセンスに頼ることができない。一般意思や社会契約をまとめあげたシステムがない。代わりに現れるのが、外と内の区別を恣意的につけた犯人の権力。すなわち探偵であろうとそうでないものであろうと、犯人の「殺す」に抵抗する力を失っていて、犯人=権力者の意思に従わなければならなくなる。ここで探偵は被害者もろともに囚人になる。しかも、犯人は不可視であり隠蔽されているので、その権力は犯人の意思から生まれるのではなく、被害者の心理の襞に自ずと生まれ、権力に従う意思を犯人に差し出していく。その結果、犯人を王とし、それいがいの被害者を従僕にする権力の網目が構成される。
 このように強引にまとめてみたが、小説中には権力論を書いた二人の哲学者がいるので、存分に権力論が展開される。まとめると、
1)外と内に線を引くことから権力が誕生する
2)権力は規律を要求する。監獄、病院、兵舎、学校、工場などの近代の組織やシステムは規律と監視を目的にする
3)近代の権力はパノプティコン(全展望監視システム)に代表されるように、不可視の権力としてふるまう。見る―見られるの「たがいみ」の関係を一方的に遮断して、見られるものの「主体」に内面化され、自律的に規律に服すようになる。
4)共同体の成立から、犯罪は社会契約の違反と扱われ、犯罪者は排除と追放された。それは共同体の構成員の死を管理する「死の権力」として現れる。近代は犯罪者の矯正と規律化を行うようになる。パノプティコンや病院の改革に顕著。まあ、人権意識の現れであるだろうし、国民軍の編成も関係しているのだろうなあ。これは犯罪者に限っていたが、次第にそれ以外の市民の生活全般に及ぶようになる。2)の近代組織やシステムがそれだ。ここにいたり権力は生と性を管理するようになる。ただ、ナチズムとスターリニズムは例外で、このふたつは死の権力であった。
5)知は権力としてふるまう。1)の内と外に線を引くことは賢者の作業であり、境界を超える勇気と知恵を持つ英雄だけができることだった。そういう智者の権力はオイディプス、オッデュセイア、ダイダロスなどにみることができる(本作の重要なモチーフ)。
 たぶん3、4はミシェル・フーコーの「監獄の誕生」をベースにしているはず。実際、ミシェル・ダジールという禿頭でゲイの哲学者を登場させているくらい(フーコーエイズでなくなっているのも、この小説のモチーフに関係している)。あいにく、自分にはフーコーの文章は追いかけるのが困難で「臨床医学の誕生」の冒頭10ページで挫折中orz。他の人の権力論もまず読んだことがないので、上のまとめが正しいのかも不明。
 権力論が要請されるのは、「閉ざされた山荘」「孤島」の意匠と犯人と被害者の囚人ゲームからいかに脱出するかにあるはず。まあ、今回の事件では犯人の権力の構想がちゃちかつ私怨に由来するので、そこに心理的に付け込むことができたというのかな。その点で、犯人の魅力がなくなり、1000ページくらいを読んだ後の「さてみなさん」からの驚愕が不発になってしまった。
 それに小説の中にある権力も、製薬企業のひとつと例によってのニコライ・イリイチの秘密結社くらい。フーコーの権力論でもって斬るには、やはりちゃちだったよなあ(「アポカリプス殺人事件」の原子力産業、「哲学者の密室」のナチスの巨大さと比較されたし)。本を閉じたあとに、読者の現実で権力の網目や自発的な規律化(=権力への服従)に戦慄するという体験にはほど遠かった。