2024/10/25 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)第3部6 取り憑かれた人々の「労多き一夜」。凡庸な人間が愚劣なまま敵を殲滅する「最終計画」を行う。 1871年の続き
ここまでにレビャートキン兄と妹と小間使い、フェージカ、シャートフ、キリーロフが死んでいる。ひとつの町でこれだけの死者が短時間に出るというのは異常事態だ。
第7章 ・・・ ステパン氏の最後の放浪 ・・・ ワルワーラ夫人に絶縁されたステパン氏は町から出るべく、小雨の中をとぼとぼを歩く。見かねた農夫が馬車に乗せ、たまり場に連れて行く。そこにいた人はステパン氏の世話を焼こうとするが、熱を出しているらしいステパン氏は上の空(「百歳の老婆」のような情景)。たまたまいあわせた聖書売りのソフィアから福音書を買うと、もういけない。宿のベッドに横たわり、ソフィヤがなりゆきで世話をする。
(ステパン氏は女性なしにはいられないという。省みれば、若いころを除くとずっとワルワーラ夫人の居候として生きていて、彼女にどんなに邪見にされても苦痛を感じても離れることができない。彼はスタヴローギンほどにセックス依存ではないが、女に依存しないと生きていけない。そこは彼も好色な人のひとり。)
ステパン氏は聖書占いをたのみ、さらに悪霊がブタに入って溺れてしまう話を読んでもらう(ルカ福音書)。ステパン氏はロシアには悪霊が蔓延していて、人間を堕落させているのだとうわごとをいう。
(ラスコーリニコフの旋毛虫の夢や「おかしな人間の夢」と同じような黙示録風景。でもステパン氏はこの堕落の先に新しい人間が生まれるとは想像しない。)
ステパン氏が「家出」をして四日目。ワルワーラ夫人がステパン氏の居場所を聞きつけ駆けつける。容体が悪化したステパン氏は「神を愛し、自分の愛に喜びを覚えているなら、神が僕の存在を僕の愛を消し去って無に変えてしまうことはない。若し神が存在するとすれば、この僕も不死なのです」。息絶えるステパン氏。
(この章の前半はどうにも冗長に思えたが、最後の3節に入って瞠目する。神を殺してしまったり、神を信じられなったりした高尚な思想をとうとうと述べ立てられるものが、「悪霊」に取り憑かれた人間によって殺されているのに、滑稽な存在だったひとが神の愛を感じ神を愛すると闡明することができたことによって立派な死を迎えることができたのだった。立派なというのは人間らしいとも言い換えられる。そうすると、スタヴローギンとピョートルの影響下にある人たちは他人を目的とせず手段として扱うばかりで、人間らしさから遠く離れてしまったのだ。前の章のふたりの死と、この章のステパン氏の死は好対照。キリーロフやピョートルの全体主義運動に由来する思想もどきは、孤立化アトム化している人には魅力的に見える。そのような「悪霊」に取り憑かれると、他人の命や価値を低くみなすことに加担しそうだ。そういう誤読を回避するべく、滑稽なステパン氏を最後にあげることにしたのかも。ステパン氏の述懐は凡庸そのもの。もう一度くりかえすが、神秘は超越的な瞬間や観念にはなく、日常の繰りかえしや存在そのものにこそあるのだね。)
第8章 結末 ・・・ 事件はシャートフの妻マリヤが夫が帰ってこないことに気付いたためだった。産婆のヴィルギンスキーの妻に問い合わせ、キリーロフの部屋で自殺死体を発見し、半狂乱になって街中でわめいているのが発見された。かわいそうにマリヤと乳児は数日でなくなってしまった。五人組は密告はしなかったが、良心の呵責に耐えきれなかった。リャムシンが自白し、次々と逮捕されていった。ピョートルのゆくえは分らない。
(五人組の反応はさまざまだ。自白にしろ逃亡にしろ弁明にしろ安堵にしろ、ラスコーリニコフが逡巡する間に検討したり実行しようとしたことだ。五人組はまことにラスコーリニコフの分身そのもの。そしてこの百年後にリンチ殺人を犯した日本のグループの反応そのものでもある。全体主義運動が挫折する過程をよくもまあその最初期に見通していたものだ。)
スタヴローギンは事件の前に姿を隠していたが、スイスにある家にこもるためだった。ダーリヤ(シャートフの妹)に長文の手紙が届く。そこでは、キリーロフは思想を持ち切れなかった、健全な理性を失っていたのだと指摘している。そして自分も自殺するだろう、しかしピストルは使わないと書いてあった。母のワルワーラ夫人とダーリヤはスタヴローギンのスイスの家に行こうとするところで、家令がスタヴローギンの帰宅を伝える。そして「丈夫な絹紐が吟味して用意され」「一面にべったりと石鹸が塗られていた」。「町の医師たちは、遺体を解剖したうえで、精神錯乱説を完全に、そして強く否定した」。
(よくある解説では、スタヴローギンは新しいタイプの悪人、犯罪者とされる。これがどうもよくわからない。小説の現在の時間では、無口だが人の興味をひいてしまう美青年の貴公子である。ワルワーラ公爵夫人の庇護下にあるので金に不自由はしていない(とはいえ手持ちの金はないとしょっちゅうこぼす)。昔の友人であるピョートルやシャートフ、キリーロフとはほとんど交遊しない。自分はそういう偏屈さや引きこもり気味なところが目についた。しかし友人たちの昔話や削除された告白を読むと、様相は一変する。西洋の新思想を吹聴し周囲の人間を巻き込んで先導する。運動の方向付けをするが、実践からは距離を置く。既存の権力や権威をバカにし反抗的である。生活は自堕落。もっとも大きな特徴は淫蕩で好色であること。この小説のなかだけでも、マリヤ・レビャートキナ、マリヤ・シャートワらを愛人にしていて、とりわけ悪質なのは12歳の娘マトリョーシャと性交して自殺に追い込ませたこと。共通するのは神と人間の掟を破って、自分と他人の「神を殺してしまった」こと。当人のカリスマ性が強いだけに、影響力がとても広いのだ。なお、念を押すと、19世紀には淫蕩や好色は「罪」とみなされるだろうが、21世紀には個人的な嗜好なので相手の同意を得ていれば目くじらを立てることではない。他者加害の行為だけが批難される。スタヴローギンの例では、マリヤ・シャートワを妊娠させて放置したことと未成年のマトリョーシャと性交したことが罪になる。)
(ただテキストからだと、周囲の人が思っているほど、この青年に凄みを感じないのは、彼が悩んでいたり挫折したりすることがないから。シャートフに殴られてしばらく飲食ができないほどのダメージを受けても、彼は憎悪を見せたり、愚痴を言ったりすることはしない。その自制心はリアルであれば感嘆することができても、テキストだけでは人間の大きさがわからないのだよなあ。彼はラスコーリニコフとスヴィドリガイロフを合体したような人物に見えて、観念的な怪物としか思えないのだよ。)
(スタヴローギンの選択した「自殺」。この問題も俺はうまく読みとれない。とりあえず指摘できるのは、スタヴローギンのそれはキリーロフの「健全な理性を失った」それとは異なっている。一方、マトリョーシャの「神を殺してしまった」悲嘆のすえのそれに近いだろう、方法や準備などが類似している。まあ、マトリョーシャの幽霊がずっと追いかけてくるので(「スタヴローギンの告白」)、取り憑かれたためにマトリョーシャの方法を反復しただけかもしれない。そういう怪奇譚はドスト氏には似つかわしくないが。また自殺するものは自分の命や価値を低くみていて、肉体を損壊することをためらわないし、苦痛を感じることを恐れない。これくらい。)
アルベール・カミュ「シーシュポスの神話」を読んでいたら、シンクロしそうな指摘があった。すなわち、ドン・ファンは放蕩と背教の罪で地獄に送られたのだと。ドン・ファンは殺した騎士長の手によって地獄送りになった。それと重ね合わせると、スタヴローギンも放蕩と背教の人。過去にしでかしたことを隠してはいたものの、町に帰ってきて過去に付き合いのあった人たちが次々に集まると、口の端に悪行が噂される。過去をしらない人がスタヴローギンに魅了されて過去のしでかしを繰り返しそうになる。そこにおいて、死んでしまった少女の亡霊がつきまとう。そうすると神がいない時代では亡霊が蘇って地獄に送ることはできない。そのかわりに亡霊を見るという妄想が彼を死に向かわせた。自殺者は神の国に入れないので、結果として地獄送りと同じになる。すなわち、スタヴローギンの物語は19世紀半ばのロシアを舞台にしたドン・ファン伝説の語り直しであった。
(同様に、カミュの「異邦人」も20世紀半ばのアルジェリアを舞台にしたドン・ファン伝説の語り直しだ。詳細はカミュ「シーシュポスの神話」のエントリーで。)
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2024/10/22 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)感想-1 「悪霊」のひとたちは、ラスコーリニコフの後継者か彼に使嗾された人たち 1871年に続く