odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

夏目漱石「坑夫」(新潮文庫) 三角関係のもつれから逃亡した若者は地獄めぐりをしても「罪と罰」を考えないが、「日本のためになれ」の説教で愛国者にはなれる。

 相当の地位を持つ家の息子19歳が、女性二人との三角関係に悩み、家出する。死んでも構わないくらいの自己破壊衝動があるが、自殺するまでには至らない。呆然と歩いているところを、長蔵という男に「坑夫(通常は鉱夫)」にならないか、儲かるぞと声をかけられる。ほとんど逡巡する間もなく、「自分」は長蔵といっしょに汽車に乗り、山中を歩く。途中で赤毛布(ゲット)と小僧14歳の二人も「坑夫」志願の仲間になる。
 行きついた先は、どこかの深い山の中。世帯持ちと独身者用の住居があり、飯場があり、その他の施設がある。飯場頭の原駒吉の命で、南京米を食い、南京虫だらけの布団で寝る。そのあと、初さんのあとをついて、坑道に入る。途中には腹ばいにならないといけないところやはしごを使うところや胸まで水に浸かるところがある。帰る途中で初さんとはぐれてしまう。石をたたく音を聞いて、ベテランの坑夫にであう。彼もインテリであったが、「自分」と同じような境遇で何かを犯し、街にいられなくなってこの鉱山に流れていたのだった。「自分」が荒んでいないのをみて、帰れと諭す。その気になったものの、飯場に帰った「自分」は仕事すると飯場頭にいった。翌日、坑夫になれるか、健康診断を受ける。
 前作「虞美人草」の小野君が10歳ほど若くなったのが、語り手の「自分」。小野君は世間に押し流されたが、「自分」は世間を捨てた。家や町などの日本社会から逃げて逃げて、行く先は素性を問われず、身の上話を聞かれない鉱山。そこにあるのは、資本主義の搾取と労働疎外の現場。機械を入れることによって、鉱山の現場は24時間操業となり、労働者は消耗品として扱われる。当然、法律は届かないし、警察も介入しない。儲かるという話も嘘であり、身体を壊すか事故にあうかで死ぬ以外に外に出ることはできない(もうひとつ出る方法があり、それを「自分」は使えた)。鉱山の機械化や資本の投入は書かれた1908年には相当に進んでいたと見える(そうして労働者を酷使・搾取して財をなしたのが、渋沢栄一や古河一族であり、九州の麻生家だ)。「自分」のみた飯場と鉱山の悲惨さをしっかりとレポートすれば、フリードリヒ・エンゲルス「イギリスにおける労働階級の状態」の日本版を書くことができただろう。しかし漱石は、労働者や庶民の生活をしっかりとみるにはあまりにインテリ。存在価値がゼロと思っている「自分」は周囲の悲惨を感知する気がない。「自分」に起きる苦労(ずっと空腹、まずい南京米、眠りを妨げる南京虫、暗闇、重い道具、坑にたまる冷たい水、ダイナマイトの爆風など)は改善するべき問題ではなく、彼の犯したことに対する罰であり、世間に背を向けたものに当然起こる業(ごう)にほかならない。彼はほとんどしゃべらないが、語りの地の文における雄弁は現状肯定に他ならない。もともと共同体やコモンから逃げてきたので、そこにある共同体やコモンの問題には無関心なのだ。
(そういう鉱山労働と飯場の搾取を書いたのは羽志主水の「監獄部屋」1925年(名作集 1「日本探偵小説全集 11」(創元推理文庫)-1 )。十数年がたっても事態は改善していない。大阪圭吉「坑鬼」1937.5(大阪圭吉「とむらい機関車」(創元推理文庫))も参考になる。戦前の炭鉱労働の記録は、以下の画文集で補完しよう。)
山本 作兵衛 「新装版 画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録」 講談社

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 というわけで、本作をプロレタリア文学の流れに位置付けることは不要。漱石の主題は、三角関係のもつれに責任を取ることなく逃亡した男にどういう罰がありうるかというところにあるとみた。ドスト氏の「罪と罰」を漱石が読んだかどうかは知らないが、罪を持っている男にふさわしい流刑地は日本の監獄ではなく、より強固な監獄状態である飯場と鉱山にあると思ったのだろう。下にみるように、「自分」は罰を受けたわけではなく、改悛することもなく再び世に出てしまう。そこを不徹底とみるか、「自分」の甘さは日本社会の常とみるか。
 以下はブッキッシュな読み。本作のストーリーはダンテ「神曲」の地獄篇に他ならない。人生に価値を持たない男が放浪する中、地獄の入り口(本作中に出てくる)を見つける。案内人は長蔵に原駒吉に初さん。彼らが交代しながら地獄を案内する(鉱山に到着する前に、うっそうとした森の中と山を深夜に登っていく。ここからすでに地獄めぐりが始まっているのだ)。罪人だらけの飯場、臭い飯に南京虫などのさまざな小地獄をへて、坑道の奥深くの暗闇地獄をさまよう。「自分」をあざ笑う坑夫たちは似たような失敗で罰を受けている亡者たち。道を失った「自分」の前に現れるのは、地下に住む(老)賢人である安さん。彼の忠告は、

「日本人なら、日本のためになるような職業についたらよかろう。学問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ」

を「自分」は受け入れる。ここで外からではあるが、「自分」の価値と意味が与えられ、放浪は不要になる。「虞美人草」はシェイクスピアの悲劇を模しているとすると、本書も西洋の古典をベースにしている。
日露戦争直後には、こういうナショナリズムが基になる人生訓が生まれていたのを確認。そこでは個人の価値や意味よりも国家のほうがより重大であるとされる。)
 もう一つのストーリーは、兵士の戦争体験。飯場と鉱山のシステムは軍隊的であり、個人の自由よりも企業価値と生産力が優先される。そこでは個人の個性よりも没我的な同調性・同一性が優先される(我=プライドはいらない)。そのような軍隊システムに適合した坑夫や飯炊き婆さんらは「自分」が異質であることを即座に見抜き、いじめや差別を実行する。鉱山の深奥に入ることは兵士の訓練に重なる。あいにくながら「自分」は軍隊に適合する身体と性格をもっていなかったので放逐される。日露戦争当時は徴兵検査ののち、体格知力ともに優秀なものしか採用しなかったので、インテリの「自分」は弾かれてしまい、戦場の過酷さを地検することはなかった(ここの落ちは三島由紀夫仮面の告白」が後に採用。実際、本書の「自分」は三島作の「私」に似ているのではないかな。他人の進言に逆らい、直前まで思っていたことの逆を発言するようなところ。まあ、三島の過剰なプライドは漱石の自己破壊的な「自分」とは真逆ではあるが。)
 まだ問題をいろいろ見つけることができるように思う。とてもいびつで不格好な小説だが、興味は尽きない。