二日酔いで目を覚ました「きみ」は見知らぬ部屋で目を覚ます。きみにしては高額なホテルに泊まったのかと思ったら、部屋に入ってきた女はきみの妻であり、これから会社に出勤するのだといいだす。きみはよんどころない事情で神戸を逃げてきて、顔を隠して生きてきたというのに。そして「浜崎誠治」という名前のかわりに、「雨宮毅」という名前を掲げなければならない。とりあえずそれまでのアパートに帰ると、同棲している女はきみをしらないといい、隣室の夫婦もきみを初めてみたばかりだという。世界から突然締め出されて、どこにも居場所がなくなってしまう。
きみは街をさまよう。手がかりは妻と名乗る女が着せた高価そうな服にあったバーのマッチと昨夜飲んだスナックの記憶。まずスナックに行くと、そこでもきみは「雨宮毅」と名乗り、別人が「浜崎誠治」を名乗っていた。浜崎の顔も行く先もはっきりしない。スナックのマダムの証言を追いかけると、捜査は行き止まり。東京駅で社員にあい、会議に連れ戻される。そこで「雨宮毅」は商事会社の社長であり、数十人の社員全員がきみを社長と認めていることだった。
このあと、モヒカン頭の猪俣という男がきみの話を聞いてくれて、いきなり町中のひとたちがきみを知らないと言い出すミステリーを並べる。アイリッシュの「幻の女」「消えた花嫁 (All at Once, No Alice) (別題の邦訳もある)」、別作者の「わたしの顔をもった男」、「ぺラム氏の奇妙な事件」、ソウル「時間溶解機」、ラティーマ―「罪人たちと屍衣」、マティスン「So nude, so dead」。ほかにブッシュ「完全殺人事件」の話も。EQMM編集長だったセンセーの面目躍如(多少は広告効果を期待しているかも。あいにくアイリッシュ以外は21世紀には入手困難)。猪俣は論理的に考える(それを明かすのはルール違反なので、秘密の日誌に書いておこう)。ある可能性を示唆して、捜査を継続するようにきみに薦める。
小説が二人称で書かれているのは、名前とアイデンティティを失った男の狼狽と不安を際立たせるためだ。三人称で書くとことばの通じない<外国人(@柄谷行人)>のおかしな言動を記録することになるし(堀田善衛「審判」、ドストエフスキー「白痴」)、一人称では男のひとりよがりに感情移入できなくなるし(ドストエフスキー「地下生活者の手記」)、ちょうどよい距離をもたせるのに二人称は最適な方法だった(センセーが言うには「実況放送スタイル」とのこと)。ロブ・グリエの二人称の小説が評判になったころで、さっそく技法を採用しているところもセンセーの慧眼(法月綸太郎「二の悲劇」は三人称部分が混在して、ここまでの効果をあげていない)。
作者が1961年に発表した長編ミステリー第一作。当時32歳。すでに文筆生活は10年以上のキャリアがある。当時、センセーはアイリッシュのファンだったとのこと(「女を逃がすな(光文社文庫)」のエッセイなど)。作中のブッキッシュな蘊蓄で言及されるのがひとつの証左。同じ着想を採用しつつ、記憶喪失症という手あかのついたアイデアによりかからないよう、いろいろとこねくり回している。こういう趣向や仕掛けを新しくしようとするのが、当時のセンセーの試み。戦前まで犯人あてのゲーム小説ではないやりかたで、論理的な説明を徹底しようとする。結果としてできあがったものは最新の純文学の手法まで採用し、「誰が書いたのか?」「どうやって書いたのか?」「なぜ書いたのか?」などの話者に関する設定を考えるものになった。この作が最初で、そのあと「誘拐作戦」「猫の舌に釘をうて」「三重露出」「悪意銀行」のような記述そのものを問題にする作品が登場する。
なんともすごい「新人」が現れたものだ。
<参考エントリー>
たぶん都筑道夫はこれを読んでいて、参考にしていると思う。著者がどこかのエッセイでタイトルを上げていたと記憶するが、どこだっただろう。
本作のオマージュ(?)作。