odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「すげかえられた首」(光文社古典新訳文庫) 男性優位社会ではたくましい肉体と優れた頭脳のどちらが好ましいか

 発表は1940年。とすると、「ワイマルのゲーテ」1939年のあと「ファウスト博士」1947年(執筆は1943-45年)を書き出す前になる。「ヨセフとその兄弟」第4部の完成を目しているころに、インド思想の研究をしていて、この小品がスピンアウトしたのだという。以上、文庫の解説のおおざっぱなまとめ。

 いつも知れない昔、インド(と広すぎる場所を指すしかできないのはわれわれの知識と関心の不足)にナンダとシュリーダマンという若者がいた。とても仲が良くいつも一緒にいた。ナンダは鍛冶屋で牛飼い。醜男ではあるが逞しい肉体で、鈍感な精神。一方、シュリーダマンは商人で、ヴェーダを読む勉強家だが貧弱な体つき。二人が旅に出ているとき、ある泉で乙女が沐浴しているのを見る。美しい腰を持つ乙女はシーターというナンダの知り合いだった。旅から帰るとシュリーダマンは死んでしまうと言い出す。ナンダはシーターの親と掛け合って、シュリーダマンと結婚させた。お伽話はここで終了するものだが、先がある。三人でシーターの実家に帰る途中、森で迷った。道を探しに知ったシュリーダマンは暗黒の母カーリー(神)の聖地に紛れ込み、官能のとりこになって自ら首を切り落とす。探しに行ったナンダは死体を見て後に続く。残されたシーターは二人の後を追おうとしたが、カーリー神が現れ、シーターの願いである二人の蘇生をすることになった。この時、シーターは首を入れ違えるという失態を犯す。ナンダの頭をもつシュリーダマンの体と、シュリーダマンの頭をもつナンダの体の二人がよみがえる(以後、頭が名前とする。体は入れ替わっている)。二人のいずれがわが夫か。決めかけた三人は森の行者で隠者に裁定を求める。彼の結論はシュリーダマンだった。ナンダは隠者になると森へはいって行った。お伽話はここで終了するものだが、先がある。シーターの官能は鍛えられた体格のシュリーダマンに満足したが、シュリーダマンの勉強は体を萎えさせる。粗野で鈍感な男にシーターは不満である。あるとき、息子を連れて家出する。修業中のナンダと再会したところに、シュリーダマンが到着。この三角関係を解くには、ナンダとシュリーダマンは己らの体を滅却させ、その死骸を焼く炎でシーターを浄化させなければならない。
 奇妙な小説。ドイツのプロテスタント道徳では官能や性愛を肯定することはできないが、インドの宗教は寛容であり、自己高揚のために使われるのであった。なので女性のシーターは夫の肉体と技術に不満を持てば、それを女神らに口にすることができる。そうすると、愛は精神だけではなく美にもある(シュリーダマンがシーターに惚れたのは水浴するシーターの裸身を見たからだった)。
(自分の読みはここまでだったが、解説では情熱の所有者シーターに男二人が消極的で太刀打ちできないところに注目して、シーターのように三角関係を整理する強い意志をもつ女性の系譜をトーマス・マンの小説に見出す。そのなかに前作「ワイマルのロッテ」の主人公シャルロッテがいて、発想のもとがワーグナーパルジファル」のクンドリーになると指摘する。この読み取りはみごと。もうつけたすことはないや。
 これを逆さにすると、男は雄弁で博識であるが、具体的な行動をすることがない。たいていの場合、誰かに依存している。ナンダとシュリーダマンがまさにそういう人物であると気付いた時に、トーマス・マンの描く男たちはみなそういう行動性向を持っているのに気づく。「ブッデンブローク家の人々」のトーマスとクリスティアンだし、「ベニスに死す」のアッシェンバッハだし、「魔の山」のハンスだし、「ワイマルのロッテ」のゲーテだし、「ファウスト博士」のレーヴェルキューンだし。ある程度行動的であると思われる「トニオ・クレーゲル」も閨秀画家リザベタ・イワノヴナの支えを期待している。解説で指摘している恋愛や性愛の情熱ばかりでなく、政治的にもトーマス・マンの男は受け身で保守的で女性に依存的。にもかかわず尊大であるのは西洋の近代が作った男性優位社会のため。マンの好きな「ドイツ精神」「芸術」「美」の観念も雄弁も博識も権力勾配を強くするために使われる。マンの小説からみえる不正義への対抗も社会の制約を受けているのだ。)
 首がすげかえられたとき、だれが誰の所有になるのかという問題がここに登場。人体実験をするわけにいかないので、思考実験するしかない。太古の神話時代の話とすることで、技術的医学的な問題はあいまいにできる。そうすると首に象徴される心と、体に象徴される身体のいずれが優位であるかという問題と、頭は心の在りかなのかという問題になる。ロックの「市民政府論」を持ち出せば、心が身体を所有するのだと一言で終わるのだが、インドでもそうなるようだ。自分の感覚として目の間(または奥)でテキストが生成されているようだから、そこに心ないし魂があるとみるのだろう。
 さらに妄想を展開すれば、これはワーグナーのパロディ。二人の男と若い女の三角関係は「トリスタンとイゾルデ」を気にしているようだ。炎の中に飛び込むシーターは「神々の黄昏」のブリュンヒルデを模している。ドイツの精神をひっくりかえしたこの小説は、ワーグナーを茶化すことで当時のドイツの精神と文化を笑ったのかしら。1933年の「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」講演で、トーマス・マンはドイツに帰れなくなったのだが、その意趣返しなのかしら。
 何を書いても隔靴痛痒の感。

 


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