odd_hatchの読書ノート

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スーザン・ソンタグ「隠喩としての病」(みすず書房) 近代は病気を患者への懲罰とみなし、患者を排除しようとしてきた。

 著者は1933年生まれで、1970年代前半にがん治療を行った。その体験から書いたものがこの本。たぶん相当に急いで書かれたものであり、同じ思考の繰り返し、同じ引用の再掲などが頻出する。その意味では整理は不十分であり、とりとめのないものではあるが、この息せき切った切実感はこの文章でないと理解できない。

1.結核と癌は隠喩にまみれている。それは、不治の病であることとあわせて、1)伝染性を持っているとみなされ、2)道徳的な罰を受けた結果とみなされる。それによって、患者に対して告知することが困難になり、また罹患していない人は患者を除け者にしたり、消毒の必要な人間とみなす。というのは、罹患していない人、健康な人にとっては、死はおぞましく無意味なもので忌避しなければならないから。

2.結核と癌は19世紀半ばまでは体を徐々にむしばむ似たような病気を考えられた。異なるのは、
1)結核は目に見える体の変化がある。色白、咳、吐血など。エネルギーが充溢する。肉体の軟化、消耗とみなせる。時間の病気。生をせきたて、霊化する。体の上部の霊的な場所が侵される病気で口にしやすく、魂の病気とみなされる。下流界層の貧困と零落の病気。環境の変化でよくなるとされる。結核による市は安楽死、繊細で美しい死(19世紀文学を参照)。
2)がんは目に見えない。エネルギーの喪失。肉体の退化や侵略、魔性の懐胎、とみなせる。空間の病気、がんは地理的な隠喩が使われる。がんは食いにしにくい場所(乳房、大腸、膀胱、子宮、睾丸など)で、肉体の病気。例外は白血病中流階級の豊かさと過剰の病気。環境の変化でよくなるとは考えない。がんは苦痛にさいなまれる死、無情な死(20世紀文学を参照)。
 以上の区別は神話的。事実に立脚したものではない。

3.結核と癌の比較の続き。
1)結核は情熱過多、性欲過剰。2)がんは情熱不足、性欲抑圧。これは最近の傾向であって、19世紀では結核の隠喩は後者であった。がんと情熱の抑圧を結びつけた人に、フロイトとヴィルヘルム・ライヒがいる。病気が進むにつれて、患者は断念・諦念を持つようになり、それによって美しくなるとされる。結核の場合にはセクシーにもなる。

4.18世紀に価値や地位は所与のものではなく、主張するものになる。そこで服装(身体を外から装う)=ファッションと病気(身体を内から装う)が価値や地位の比喩になった。で結核のロマン化が起きる。文学でも、実在人物でも(バイロンショパン!)。「ロマンティック」の原義は「興味深い」であって、人々は健康と外見、そして悲しみ、無力であることに注目した。無力は繊細さ、感受性の目印。そして世界から身を引く方法、ブルジョア社会の義務を放擲する口実となった(だから文学の主人公がよく罹患した)。また罹患することで自己超越を果たす(これが20世紀には狂気にかわる)。一方、健康なものからすると、罹患者は監禁し、日常世界の外に連れ出される。結核は伝染病としてのみならず、「穢れ」としておそれられる。患者の持ち物は焼却される。

5.病気は積善の最後のチャンスとされる。病気にかかることでこれまでの自己欺瞞と失敗を洞察し、真実を生きる(ときに霊的に浄化される)。

6.病気は内面的なものを激化するための言語で、自己表現のひとつとされる。すなわち病気にかかったものは内面化されていた性格や欲望が顕在化し、公開したくないものを公開するもの。なので、病気は解読するものになる。で近代人は感情表出を避け、無表情なニヒリストであろうとするから、病気はその仮面をはがし、道徳的な罰を与えるものになる。そこでは病気の責任は患者個人にあるとされる。ときに患者が侮蔑的にみられ、人生の敗北者であるとされる。

7.結核もガンもそれにかかりやすい性格があるとされてきた。このような心理学的な理解は病気のリアリティを骨抜きにする。要するに、生活を悔い改めろとか、性格を変えろとか、贖罪せよとか、病気の治療とは別のことにエネルギーを使わせる。そして死は意欲の減退であるとされ、死んだものは敗者になる。

8.病気懲罰説から病気の隠喩に軍事用語がつかわれるようになる。逆に社会現象に病気の隠喩がつかわれる。そこでは病理とされるものは、災厄であり感染性を持ち無統制であり無秩序に拡大し侵略するものであり、排除され隔離され切除され、懲罰されるものになる。結核やがんが原因不明であったことが、その隠喩の力を強めることになった。がんは、消費生活の異常事態であるので経済への反逆とみなされ、がんの浸潤性は秩序を破壊するから軍事的に対応するものとされた。軍事的な比喩の源泉は1880年代の細菌病因説が浸透してから。結核はやめる自我の病気で、がんは絶対の他者(エイリアンとかミュータント)による病気。なのでSF的発想や悪魔憑きが隠喩に込められる(これが書かれたのは1978年。ブラッティ「エクソシスト」(新潮社))。そのイメージの延長で、反資本主義や反工業化社会、都会拒否、「不自然」の主張に使われる。

9.病気は社会が腐敗し不正を行っていることを告発する隠喩であった。そしてこの隠喩は19世紀から毒々しくなり、挑発的になる。すなわち病気(とみなされるもの)は悪の目印で、罪の源泉であり、早期発見しても治療は不可能であり、合理的な対策では解決がつかず、寛容な対応では手遅れになり、強硬手段で解決するべきで、暴力の行使も許容される。複雑なものを単純化し、自分を絶対的に正しいと思い込ませ、狂信的な態度に誘い出す。(そのような社会的な病気の比喩は、患者を苦しめることになる。



 著者の結論は、病気は隠喩ではない、隠喩がらみの病気観を一掃すること、同様に社会現象に病気の隠喩を持ち込むことをやめること、となる。はなはだあいまいな行動の提起ではあっても、文章を書く人には可能なことだろう。あとは病気の隠喩は多義性を持っていて、聖である一方穢れで、情熱過多である一方不足でもあったりし、霊的浄化と不道徳性が混在していたり、という具合。だから上記のレジュメでも同じ病気のイメージが時に異なることに注意。ここらの病気の隠喩化と社会の病院化はたぶん同じ精神から発していると思う。なので、社会の病院化ということにも思いをはせておこう(この本の主題ではないので)。

 評論家としての仕事は知らないので、ここでは書かない。上記のようなレジュメにし、引用されている小説タイトルと作家名を書くと西洋の病気思想史になるし、医師・看護師が患者やその家族と接するときの基本マニュアルにもなるだろう(実際に、このようなレジュメをもっと整理して看護学部の授業に使っている例があるのをwebでみたことがある)。
 感想はとくになくて、ああ、注意していても著者の指摘する隠喩を自分も使ってしまうなあ、それは他者の権利を侵害することであるし、自分の思い込みを強化してしまうのだなあ、という凡庸なこと。さっきも「闘病」を書きたくなって、その直前に別の言葉にしたのだった。この種の隠喩は強力だし、がんのあとにはエイズ放射能という新しい隠喩が登場してきている。これも暴力的な隠喩になっているから、その影響から抜け出すためにもこの本は読まれるべき。
 あと、この本の面白さは病気の隠喩の例として、大量の文学作品を引用していること。デフォーの「ペスト」からマン「ヴェニスに死す」カミュ「ペスト」まで。デュマ「椿姫」にマン「魔の山」、トルストイ「イヴァン・イリッチの死」まで。ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」とソルジェニツィン「ガン病棟」に・・・えーと。他にもたくさんあった。病気の実証研究をしているわけではない作家の文書だから、その時代の隠喩が無意識に開示されることになるのだね。それに繰り返し読まれるものだから、影響力も強いし。というわけで、小説を読むのはたんにストーリーや人物や事件を楽しむことではないよ、視点を変えることによって見えるものはたくさんああるという実例。当然、この国の小説は対象外なので。この国の小説に見られる病気の隠喩、というのは面白いだろう。きっとすでにだれが行っている。北村透谷に夏目漱石石川啄木堀辰雄に。戦後文学でも、椎名麟三福永武彦に、という具合。たぶん病気の隠喩と同時に死の隠喩も見えてきて、この国の人々が死者をどうみるかの感じ方が違っていることも見えてくるだろう。

    

スーザン・ソンタグ「エイズとその隠喩」(みすず書房)