odd_hatchの読書ノート

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黒岩涙香「紳士のゆくえ」明治24年(別冊幻影城「黒岩涙香集」から全文採録)

紳士のゆくえ

黒岩涙香

不思議、不思議、煙の如く消え失せて更にゆくえの知れざる一紳士あり。

甲「何処へ行った」

乙「夫が分らぬから不思議じゃないか」

甲「何処で居なくなった」

乙「夫も分らぬ」

甲「ではまるで消えて仕舞った様な者だネ」

乙「爾々(そうそう)、まるで消え失せて仕舞ったのだ」

甲「其の消える所を誰か見た者でもあるのか」

乙「誰も見ぬから猶、不思議だ、妻も娘も下女、下男も店の者も、誰一人、彼の消えるのを見た者がない」

甲「でも人間一人が消えると云う事はない。火が消えても灰が残る様なもので、死骸位は残って居ようが」

乙「夫サ、今に死骸が何所からか出て来るだろうとは思うが、殺されたか隠れたのか夫も分らぬ」

甲「アノ様な金持が隠れるという事はない。必ず殺されたのだろう」

乙「左様サ、金持と云う奴は、兎角、剣吞なものだから」

と到る所の時となりたる其の紳士を、誰とかする、巴里府マレー区の豪商、塩田丹三といえる人なり。

此の人、其の区内の名望家にて先祖代々、其の区に住み、飾り物の問屋を業とし、其の業より上る純益年々五万フランあり、家内は妻一人、年頃の娘一人、娘は有名なる銀行頭取の息子某より所望せられ、縁談既に整いたりとの噂もあれば、親の身にとりては此の上なく歓ばしき時なるに、此の歓びを余所に見、最愛の妻子を残し、ゆくえ知れずとは何事にや。日頃の行いも正しくして二十五年、一夜たりとも家を明けし事なしというに、訝しき事もあるもの哉。

区内の人は孰れも親戚を失いたる心地して其の家に奔(は)せ集まれど夫人も令嬢も悲嘆に沈みて何人にも面会せず、唯、其の隣家に住む小間物店の主人が其の家の下男より直き直きに次第を聞き取りたりとの事なれば、人々は狭き小間物の砕くるほどに詰め寄せて、少しの買物に事寄せつ、主人の話を聞かんとす。主人は朝より口続けに同じ返事を繰り返せり。

「イイエ、昨日の事なんです。何でも夕方の六時ですが、塩田の旦那は穴倉へ降りて行き、夫ッ切りで出て来ぬ相です。下部が直ぐに穴蔵(あなぐら)を探したけれど跡形もなく、入口の戸は開けた儘で這入ったか出たかも分らぬと云う事です。ソレ、昨日は土曜日でしょう。夫だから今日の日曜日には穴倉を開かぬ様に入用の品だけを二日分出しに行ったのです。何でも濡れた水の乾く様に身体が蒸発したのだろうから、此の上は化学者を頼み空気を分析して貰えば旦那の身体が出て来ようか、其の外には探す当てもないと云って居ます。矢張り何でしょう、盗賊(どろぼう)が兼ねて穴倉に忍んで居て旦那を殺し、露見を恐れて其の死骸を持った儘で逃げたのでしょう」

と尤もらしく道理を附くれど、何しろ非常の事柄なれば警察にても捨て置かれずとし充分に事の顛末を糺し、草を分けても其の死骸を見出ださんと云うに決し、掛かり官一名其の家に出張したり。如何にも細君と其の嬢(むすめ)は主人の既に死したる如く泣き崩れ居たるを、掛かり官は及ぶだけ慰めて聞き糺すに、小間物屋の主人が言葉とは多少相違せし所もあり。

塩田丹三は昨日(土曜日)穴倉に行きたるも、夫(それ)切り消え失せしに非ず。此の四五日、頭痛がするとて顔色も常ならざりしが、穴倉を出で来たりてより夕飯の卓子に向かいしかど、食物に箸も着けず。少し散歩でも出で来たらば食事も進む事ならんと云い、其の儘、又卓子を離れて居間に入り、居間にて半時間ほど書き物など調べたる末、更に細工場(さいくば)に下りて行き猶、居残れる職人に事業上の差し図を与え、夫にて散歩に出で行きたるが、門を出でて孰(いず)れに行きしや、今以て帰り来たらず。是まで外にて夜を更(ふか)せし事なき人なるに、此度に限りて此の事あるは必定身を亡ぼしたるに相違なしとの事なり。

係り官は是丈の事を聞き猶手掛かりを得んものとて細君に打ち向い、

「若し御主人は是まで外の――婦人にでも迷うたと云う様な事柄はありませんか」

と尋ねるに細君は悲しみの顔に一種の怒りを現わし来たり、

「丹三に限り其の様な事は決してありません」
と答う。

官「成る程、日頃品行方正を以て知られる方ですから其の様な事は様な事は――」有ります舞いナ、ですが、若し屢々、倶楽部とか珈琲店とかに行く

細「夫は交際上で、ないとも云われますまいが、別に何の倶楽部へ入って居ると云う事は有りません。何しろ遅くも十時までには期っと帰って来た人ですから」

官「ではもう一つお尋ね申しますが、昨夜お出掛けの時、余程の金子でもお持ちでしたか」

細「夫は何うですか、丹三の扱う金は家事向きの費用と別にして有りますから私には分りません」

係り官は肝腎の事柄の分らぬを残念に思いたれど、此の上問うべき事もなければ慰めの言葉を残して茲を退き、更に下部どもを呼び集めて聞き糺すに、細君の言いたる所と大した相違もなく兎に角、塩田丹三は昨夜の中に殺されしならんと思わるるにぞ、直ちに警察署に引き上げて此の事を警視庁に報告し、警視庁は検察官に、検察官は予審判事に、予審判事は探偵に、夫々此の事件の探索方を任せたるが此の度の探偵は有名なる散倉(ちらんくら)老人なりき。

老人が探偵の仕方一種違いて殊に最(い)と熱心なるとは何人も知る所なれば管々(くだくだ)しく記すにも及ぶまじ。判事は先ず警察署より送り来たれる塩田丹三の此の頃の写真一枚を老人に渡さんとするに老人は目を張り開きて、

「エ、貴方は此の散倉に写真で探偵しろと仰有るか、へエお断わり申しましょう、写真と当人の顔とを見較べる位の事は私に及びません。何の様な探偵にでも出来ることです」

判「でも貴方はまだ塩田丹三と云う者の顔を見た事がありますまい」

散「是は面白い、伺いましょう。当人の顔を知らねば探偵が出来ぬのですか、シテ見ると貴方に使われる探偵は第一に世界中の人の顔を残らず知っていなければ了(いけ)ません、ヘイ此の事件はお断わり申しましょう、憚りながら散倉は写真で探す様な素人臭い事は一度も仕た事がありません」

と云う。判事は兼ねて老人の気質を知れば、

「イヤ、何でも実効が上れば能い、写真を用いると用いぬは当人の適宜と云うもの」

散「ハハア、爾ですか、実効が上れば能いとなら引き受けましょう、散倉も元来がその主意で、兎角実効を上げるが好きです。私は探偵でございと写真を持ち廻る事はまだ稽古しませんから、宜しい、引き請けました。当人が生きて居れば其の居所を突き留め、殺されたならば、其の下手人を見出だすが是が実効と云うものでしょう」

判「爾ですとも」

散「宜しい、では貴方の云う実効と私の云う実効と同じ事だから、直ぐに私は着手します」

と云い散倉老人は衣囊(かくし、衣服に縫いつけた物入れ)より半拭(はんかち)を取り出だし、其の高き鼻をクルクルと拭き廻して出で行きたり。

 

時は金なり、時を惜しむは金の如く、唯の一分も無駄には捨てぬが散倉老人の気質なれば、裁判所を出ずると斉(ひと)しく直ちに其の禿頭を振り舞わし、高き鼻を蠢(うご)めかして探偵に取り掛かりしと見え、翌る月曜日の昼過ぎには早や意気揚々と判事の部屋に入り来たれり。判事は腹の中にてフフムと笑い、さては彼、写真は要らぬなど大言を吐きたるも、無くて叶わぬ場合となり、开(そ)を借りに来たりしかと高を括りて、

「何か用事が出来ましたか」

と問う。

散「ハイ、私の来るのは何うせ用事に極まって居ましょう」

と云いながら腰を卸ろす。

判「写真ならば其の儘茲に在りますよ」

と判事が卓子の抽斗に手を掛ければ散倉老人、いと不興気に、

「へへエ、貴方の使う探偵は翌日になってまだ写真など借りに来ますか、其の間何を仕て居るのでしょう。私とは余程違います」

判「シテ貴方は」

散「ハイ、成績の報告に参りました。夫とも一夜の間に探ったのが早過ぎて粗末だろうと仰有れば、是から帰宅してお気に入る刻限まで昼寝する丈の事です。私の探ったのが早過ぎますか」

判「早い丈が探偵の手際ですから早過ぎると云う事はありません」

散「ハア爾でしょう、早い丈探偵の手際と、じゃあ、貴方の意見と私の意見と同じ事だから直ぐに成績を申し上げましょう」

判「早や成績が上りましたか、夫は実に感心です、サア聞きましょ感心の一言は癖ある馬に鞭あてし如く、老人は止め度もなく勇み立ち、

「イヤ、丸切り手掛かりのない事件ですから感心する程には運びませんが、雑(ざ)っと斯です。第一塩田丹三の家を出たのは午後六時と云う事ですが、私の探偵では七時です。切っかり七時です」

と云い来たりて判事が如何に感ずるか其の顔色を読まんとす。

判「能く切っかり七時と分りましたね」

散「是は時計屋の主人が云う事ですから確かです。塩田の家から少し離れた所に時計屋がありましょうが、土曜日の夕方に其の店先で丹三が立ち留まり、内の時計を伺いて自分の時計の時間を合わせた相です。其の時、時計屋の主人もフト気が付き背後の大時計を見ると七時零二分であったと申します。丹三の家から此の店に来る迄が丁度二分掛かったと見て好いでしょう」

判「成るほど夫だから家を出たのは切っかり七時か」

散「爾です爾です。中々貴方は悟りが早い、貴方の様な方には報告しても面白い」

判事は自分が口を開く丈益々老人に余計の言葉を費やさせると見たれば是より唯感心の色を示すのみにて無言の儘に打ち聞くに駿馬が巻の音に勇む如く老人は己が弁舌の声に勇み、

「勿論時計屋の主人は日頃丹三を知って居るのです、丹三が時計を見たと云うのは極く極く詰らぬ事柄ですが、此の詰らぬ事柄が私の手掛かりになったのです、時計を見たのが丹三の仕合わせで是がなければ何の様な探偵でも彼の行った方角を突き留める事は出来ません。イエ全く爾でしょうよ、私は先ず手掛かりが出来たワエと呑み込んで更に時計屋の主人に向い、其の時丹三が何か手に持っては居なかったかと尋ねると夫は覚えぬと答えます、覚えぬ筈はないがと思い、たとえばパイプでも持っては居ぬかと彼の記憶を掻き立てて遣りますと爾々、葉巻煙草を持って居たと云います。手に持って居たか口に加えて居たか。ハイ、手に持って居りました。ハテな、時計を合わせるのに手に持って居ては邪魔だが夫を口に加えぬ所を見れば未だ火を附けて居なかったのだな、シテ亭主、其の葉巻煙草は長かったか短かったか。ハイ、長い様でありました。ソーレ、愈愈吸い付けてない煙草でしょう、未だ少しも吸わぬから長いのだ、其所で私は直様(すぐさま)丹三の家に引き返し、彼が摺付木(すりつけぎ、まっちのこと)を持って出たか持たずに出たかと調べますと、彼が日頃持ち歩きます銀製の寸燐(まっち)箱は小棚の上に乗って居ました。シテ見ると彼は寸燐を忘れて行った、去れバとて吸い附けぬ煙草を何所迄も其の儘持って行く筈はないから何所かで火を借りて吸い付けたに違いないが、さて何所で吸い付けただろう、何所か煙草屋の店先に違いない、ソレ煙草屋の店先には得てアルコール硝燈(らんぷ)を出してありましょう、私は夫で吸い付けたと踏みましたから、猶、丹三の家から今云う時計屋までの方角に由って考えますと丹三は何でも大通りの方へ出たに違いない、直ぐに私も大通りへ出て見ました。出て見ると煙草店は二三軒あるが生憎アルコールの小燈(こらんぷ)が出て居ないや、驚いたネ、だけれど未だ失望するときでない、更に大通りを後と先と一丁宛探して見ると、一つ其の小燈の出て居る店がある、占めた、私は其の店へ飛び込んで聞いて見ると何うでしょう、私の思った通りサ、帳番の奥に居た女が出て来ての返事に一昨夜の宵の中に塩田の旦那が店に立ち寄り、いつもは金持に似合わず下等の煙草を買うのに其の夜に限り少し上等を一束買い、衣囊へ入れて、夫から持って居るのへ吸い付けて行ったと云います。サア何故いつもと違い少し上等の煙草を買ったでしょう。他人の前へ出るからの事だと思わねば成りません。細君の言い立てでは丹三に限り倶楽部や珈琲店へは余り行きませぬと云った相ですけれど、自分の道楽を一々組君に届ける紳士もありませんから、夫は先ず当てにならぬと、夫から其の煙草店の女に向かい、お前は若し塩田の旦那がいつも行く珈琲店を知っては居ぬかと問いますと夫は知りませんが何時だか此の横町に在る土耳古(とるこ)茶店から出て来た事がありましたと答えます。未だ未だ其の土耳古茶店だと思い直ぐに又其所へ行って聞きますと給仕が、塩田の旦那は一週前に一寸見えた切だと云うのです。又分らなくなって仕舞った。併し給仕などと云う者は能く客の事を聞き知って居る者ですから猶、色々尋ねますと、詳しくは知らぬけれど折々はナット倶楽部へ行く様子だと云います。ナット倶楽部は随分遠いけれど道順を考えてみると成るほど其の方へ行ったかも知れませんから又ナット倶楽部へ行きました。茲で給仕に聞くと成る程宵の中に来て某の街の同業某と云う者と十時頃まで何でも生命保険の話を仕て居たと云いました。夫から何うしたと聞くと其の某と一緒に帰って仕舞ったと云いますから、直ぐに某の家へ行き某に逢って聞きますと、如何にも一昨夜、倶楽部から一緒に出たがリセリウ街まで来て分れたと申します。ハテなリセリウ街と何の積りで丹三がリセリウ街に這入ったかと色々探偵しても分りませんから更に私は丹三の家に取って返し、常に主人の伴などをする男に乗って、若しリセリウ街に取引先とか得意先とか或いは又懇意な友人でもありはせぬかと聞くと、何もないが爾々唯、旦那の衣類を仕立てる仕立屋が一軒あると答えました。直ぐに又、其の仕立屋へ行って聞くと、何うでしょう、土曜日の晩に丹三が来て筒袴(ずぼん)を一組拵えたと云います。夫だけでは分らぬから猶色々聞きますに丹三は何となく気持が優れぬ様で余り口数も利かなんだが、筒袴の寸法を取って居る中に外被(うわぎ)のボタンが一つ取れた相です。此のボタンをつけて呉れと云い其の外被を脱いで職人に渡す時、衣囊の中の品物だけ取り出しました。其の品物とは外でもない先に買った煙草と外に書類や銀行の切手などありまして、丹三は其のボタンの附くまで椅子に腰掛けた儘、書類と紙幣とを選り分けて居たと云います」

判「其の金高は沢山か」

散「左様、凡そ五千フランもあったろうと云う事です」

判「分った、ハハア其の金が身を亡ぼす基になったのだな」

 

「其の金が身を滅ぼす基となったのだ」

と判事の呟くを聞き捨てて散倉老人は言葉を継ぎ、

「夫では丹三は其のボタンを縫い付けて貰って居るうちに主人に向かい今夜は是から町盡(はず)れのホーローベンまで行かねばならぬが気持が悪いから馬車を雇って来て呉れ、と云った相です。主人は下部へ言い付け馬車を呼びに遣り、其の後で、貴方、此の夜中に大変な所までいらっしゃいますネ、今夜は少し風もあるし気分がお悪ければお見合わせなさるが好いでしょう、と当り前の世辞を云うと、イヤ、至急の注文を受けたから職人に差し図しに行くのだ、へエ、彼の様な遠い所にお店の職人が居るのですか、居ますよ、実はナ、腕は此の上もなく好い男だけれど少し風儀が悪いから、店へ呼ぶと外の職人の風儀まで紊(みだ)すと思い、夫で其の男ばかりは当人の勝手な所に住まわせてありますよと丹三の口から云った相です」

判「成る程、夫は大変な手掛かりだ」

散「イヤ猶だあります。夫から私は丹三の店へ引き返し、ホーローベンに住んで居る職人は誰だと聞きますと成るほど、主人が真珠の細工物を誂えられた時、毎も町盡れの職人に請け負わせるけれど其の職人の住居も名前も丹三の外に知った者がないと云うのです。是には散倉も当惑しました。此の上は唯当夜丹三を載せて行った其の馬車の御者に聞く他はないと再び仕立屋に取って返し、其の下部に聞きますと、下部は、馬車の番号を覚えて居ません、唯、何でも黄色い車の附いた馬車だったと云いますから、黄色い車なら中央馬車会社の馬車ではなく、独り立ちで遣って居る自前稼ぎの馬車に違いないと思い、直ぐに市役所へ行き、リセリウ街の近辺へ出る自前馬車の持主を調べ昨夜の中に廻章を廻して置きました。すると今早朝になり一人申し出て来た者がありますから能く聞くと、一昨夜仕立屋の前で五分間も待たされて夫から店を出る客を乗せ、ホーローベンまで送り届けて帰った、と言い立てました。シテ手前は、其の客の顔を覚えて居るか、ハイ、覚えて居ます。サ、其所で能くお聞きなさいよ、貴方、日頃使って居る素人臭い探偵吏なら必ず四五枚の写真を出し此の中の何の紳士だった、と問いましょう。散倉は爾はしません、出し抜けに、其の客と云うのは極く瘠せた色の生白い人だろうと問いました。スルと、イヤ、夫なら違います、私の載せたのは、肥太った色の赤黒い人でしたと答えました。エ、何うです、此方は丹三が肥太って色の黒いと云う事は聞いて知って居ますワ、だから反対に問い掛けた。彼奴、其の間に釣り込まれず、イエ、違いますと明らかに言い切る所を見れば、決して好い加減の返事をするのでなく全く覚えて居るからの事。最(そ)う占めた。愈々(いよいよ)占めた。夫から私は其の者の馬車に乗りホーローべンへ遣って行くとアラス街四十八番館の前へおろし、此の家です、と云う、其の家へ入って帳番に聞くと其の家の四階の一室を借り真珠の細工人虎太と云う者が住んで居て、一昨夜紳士が尋ねて来たと云う事も分りました」

と云い、老人は又も判事が顔に感心の色を浮べるや否やを見んとす。判事は真実(まこと)に感心しつつ、

「夫で其の虎太と云う者が怪しいと認めますか」

散「イヤイヤまだ事実があります。夫は帳番の話ですが、紳士が虎太が居るかと問い、居ると聞くと直ぐに四階へ上って行ったが、其の時が既に十一時半だったと申します。帳番は其の儘寝床に就いたが凡そ十二時と覚しきころ、虎太は紳士と共に降りて来て、紳士を送って外へ出たが、帳番は半時間ほども目を覚して居たけれど虎太の帰って来たのを知らず、翌朝、早く起きて四階に行って見ると虎太はいつのまにか帰って居たと云うのです」

判「シテ丹三は」

散「丹三は虎太に送られ一緒に此の家を出て何所へ行ったか、夫からが更に分らぬのです。充分に詮索したが何うしても分りません」

判「フム、夫は怪しい。目を注ぐべきは其の虎太だ」

散「実に爾です。私も、今虎太に逢って問い糺しては彼に用心させる様な者だと思い彼にはわざと逢わずに帰って来ましたが、其の代わり帳番には充分に問いました。如何にも丹三が仕立屋の主人に話した通り虎太は職は好いが風儀が悪い。此の頃何処の馬の骨か分らぬ様な女を引きずり込み、夫と夫婦同様にして酒を食らい、日曜日の上になお月曜日までも自分の休日ときめてあって旦那先にも大分の借りがあり、何でも此の頃では毎日の様に其の女と出歩いて居る相です」

判「では最う其の者に違いない。丹三の細工物を誂えに行けば必ず幾等かの手附けを打つだろうから、其の時丹三が五千フランの大金を持って居るを見、悪心を起こして外まで送って出たのだ。アノ辺は淋しい所で年々幾度も此の様な事件のある場所だから殺した上で死骸を川にでも投げ落とせば何時迄も分り様がない」

散「左様サ、此の散倉の様な探偵がなければ、何時迄も分りません」

判「ですが貴方の行った時、虎太は宿に居ましたか」

散「居ません。其の女と共に朝から遊びに出た相で」

判「では留守を幸い、其の室中を検めて見たでしょうね」

散「ところが私は室内捜索の許可状を得て居ませぬから其の許可状を発して貰いに帰ってきたのです。直ぐに何うか許可状と逮捕状とを認めて頂きましょう」

判事は此の請求に応じ真珠の職人虎太に対する室内捜索状と逮捕状を認めながら、

「其の帳番の男と云うのは確かでしょうね。後で虎太に貴方の事を知らせなど仕ます舞いネ」

散「夫は確かです。第九百二十号の鑑札を持って居ます(巴里の家家に番をする帳番なる者は多く警察庁の密旨を受け居る由なり。茲に九百二十号と云えるは其の番号なり)

判「で貴方は其の帳番に無論夫々の差し図はして置きましたろうネ」

散「夫より最っと好い事を仕て置きました。手下を一人見張りとして附けて来ました」

判「貴方の手際には実に感心します」

と云いながら判事は其の認め終わりたる捜索状と逮捕状とを差し出すに、散倉老人は之を受け取り矢の如くに判事の室を走り出でたり。其の得意想うべし。

 

一本の巻き煙草より終に嫌疑人まで突き留めし事なれば、散倉老人は真珠細工人虎太に対する捜索状と逮捕状とを得て、飛ぶが如くに判事の室を馳せ出でしが、かくて再びホーローベンに着きたるは、早や日の暮れる頃なりし。何しろ家宅捜索は容易ならぬ事件なれば老人は先ず其の土地の警察署に行き署長に其の旨を言い立って、巡査一人鍵鍛冶一人を引き連れ、虎太の住める四十八番館を指し行きつ。其の入口の手前にて巡査と鍛冶屋を待たせ置き、これ一人店に入るに、此の時誰なるか、微酔(まろよい)の調子にて鼻謡を唱いながら、梯段を上り行く声聞こゆ。散倉老人は兼ねて帳番の許に附け置きたる己が手下に向い、是から愈々虎太の室を捜索するがと云い掛くるに、手下に其の声を制せんとする如く唇頭(くちびる)に指を当て、

「静かに静かに、今丁度夫婦とも帰って来て、自分の室に上って行く所です」と云う。

散「フム、鼻謡を唱ッて居たのが虎太夫婦か、ハテな、人を殺した当座にしては余り素振りが大胆過ぎるが己の疑いが間違ったかナ」

手「大丈夫です、間違いません。貴方の帰った後で私が内々彼の行先を探って見たが、毎になく大金を持って居ます。余程金遣いが荒い様です。今日は友達の惰け者大勢と共に野外へ遊びに出て居たので、是から又食事を済ませて夜芝居を見に行くと云って居ます」

散「フム夫では其の金を何所へか隠し、捜索されても分る気遣いはないと思い、充分安心して居ると見えるが、此の散倉が捜索すれば塵の数まで調べるから隠そうとて隠せる者か」

と相手の益々図太きを見て、散倉老人が秘かに打ち喜ぶ其の間に虎太は早や妻(とも何とも附かぬ女)と共に四階まで上り盡くし己が室に入り行きて、

「サア早く食事の仕度をしな。何うせ行くなら序幕から見度いから」

妻「お待ちなさいよ。野原で取って来た此の草花を私は一寸生けますから其の間に貴方は次の室へ行き、昨夜飲み残したお酒の瓶を取ってお出でなさいな」

と妻の云う言葉に従いて虎太は次の間に行かんとするに、此の時、トントントントントントン、外より入口の戸を砕くるばかりに打ち叩く者あり。

「御用だ御用だ。ここ開けぬか」

と叱る声、雷の如くに聞こゆ。身に覚えなき人ならば驚くとも別に恐るる筈なきに、虎太夫婦は忽ち恐ろしさに堪えぬ如く、早や身震いを初めたり。外なる散倉老人は戸の表の鍵穴に猶鍵を差し込みたる儘置きあるを見、一捻じねじて戸を推し開け、巡査及び手下とともに猶予もなく突き入りて、第一に先ずおののき恐るる二人の様子を見、「先ず好し」と思いし如く打ち頷き、次にはいと厳しき声にて、

「コレ、何故此の戸を開けなんだ」

と迫(せめ)問えり。虎太は失いし顔の色さえ繕う能わずして、

「ヘイ、ヘイ、余り喫驚(びっくり)しましたので、ヘイ、実はアノ、何事かと思いまして」

巡査は横合いより、

「己が心に暗い所がなければ、其の様に喫驚する事はあるまい。此の方どもが何故に出張したか、手前は知って居るだろう」

虎太は何やら返事すれど、其の言葉、聞きも取られず、

散「此方どもは家捜しに出張したのだ。其の方の得意、塩田丹三という者のゆくえが知れぬに付き、探偵を遂げた所、土曜日の夜に此の家へ来て其の方と共に出たきりだという事が分った」

星を指す老人の言葉に二人とも返事も得せず。

巡「サア、戸棚から簟筒から残らず検めるから鍵を渡せ鍵を、鍵がなければ叩き毁すぞ」

此の叱りに驚きて妻は震う手に衣囊を探り、一束の鍵を取りて差し出せば巡査は受け取りて老人に渡し、

「サア是で捜索をお始めなさい」

と云う。是より老人は「塵の数まで調べる」と云いし如く必死となりて捜し始め、押入の隅、棚の下、凡そ怪しと認むる所は悉く検め盡くして、此の上は最早、壁を剝して土を飾るの外なしと云う迄に至りしけど丹三が携え居たる五千フランの大金は影も見えれば流石の老人も危ぶみ始め、

「是は不思議だ。己の疑いが違ったのかナ」

と呟きしも唯一つ怪しむべきは虎太夫婦が次の室に退きもせず、いと気遣わしげに捜索方の向かう方を眺め居るにぞ、

「何でも彼等の心に探されては成らぬと思う所があるに違いない」

と頷きつつひそかに其の妻の眼の向き所を注意するに何とやら窓の方を指すに似たり。老人は「分った」と叫び、直ちに窓の下に行けば兹には唯、番(つがい)のカナリヤ鳥を養いたる鳥籠を釣り下げあるのみ、其の外の品物は悉く検め終りたる後なれば、老人は少し当てが外れしも其の鳥籠にむずと手を掛くるに、妻はとても逃れじと思いしが、

「了(いけ)ません。カナリヤが驚きますよ」

「金を隠す様な横着な鳥ならば是位の事には驚くまい」

と云い其の儘取り卸して検むるに、是も通例の鳥籠なり。怪べき所更になし。されど鳥籠の底の板は、孰れも掃除に便利の為、二重にかさねあるものなれば、老人は鳥糞の溜りたる板の下こそ怪しけれと、今度は其の一枚を取り外すに、老人の眼鏡はあやまたず薄き板と板との間に、四千五百フランの銀行券をぞ見い出しぬ。

 

鳥籠の底より、四千五百フランの大金が出でたれば、最早、疑う所なし。塩田丹三は職人、虎太に殺されしなり。虎太は去る土曜日の夜、丹三が大金を持てるを知り、親切げに送り出でて人なき所にて彼を殺し、其の金を奪い来たりて鳥籠に隠し置きたるなり。

散倉老人の満足に引き代えて虎太夫婦の狼狽は一方ならず、隙あらば逃げ出さんとするばかりなるを、老人直ちに取って押さえ、

「其の方二人を捕縛する」

と云う。虎太は歯の根も合わぬ口にて、

「何の罪で、何の罪で――」

散「知れた事よ。此の逮捕状を読んで見ろ、塩田丹三を殺し、其の大金を奪った罪で」

と逮捕状を其の目先に差し附くるに、最早言い争う気力もなし、絶望の吐息を発して首を垂れる。妻はなお鎭まらずして狂気の如く室の中を奔(は)せ廻りしも、難なく巡査に捕えられ、是も望みの絶え果てし如く、

「何うしたら、先ヶ好かろう」と泣き叫ぶのみ。固(もと)より重大なる罪人なれば、軽々しく取り扱うべからず。散倉は巡査及び我が手下に命じ、直ちに手錠を卸させて厳重に二人を捕縛し、

「若し言い度い事があれば、予審判事の前へ出て言い立てるが好い、大金に目がくらみ人を殺した罪は重いが、唯、有体に言い立てれば判事も其の情を察するから、自然幾分か其の罪も軽くなろう」

と斯かる場合に紋切り型の言葉を並べ、其の儘夫婦を引き立てて茲を出でしが是より凡そ一時間半を経たる頃、老人は巴里に帰り着き、夫婦を別々の檻に入れ、互いに言葉を交す事の出来ぬ様、厳重なる虜となしたり。此の時は既に夜の八時過ぎにて掛かりの判事は疾くに裁判所より退きたる後なれど、老人は判事の宅まで尋ねゆき夫婦捕縛の次第より取り調べの方法に付き己が考うる事まで語り終わり、

「唯不思議なのは、夫婦とも人を殺した当座に似合わず世間憚からず遊び歩いて居ましたから、必ず言い開きの工夫を考え、是ならば何の様な判事をも言いくらます事が出来ると安心して居たのかも知れません。尤もまだ素人だけに、捕縛された時には此の上もなく狼狽ましたが、何しろ最う証拠は充分です。金使いの荒い事も私の手下が見届けてありますし、夫に五千フランの金を五百フランだけ小出しにして使って居たと見え、鳥籠の底には四千五百フランだけありました」

と述べ、判事の感心する顔を見てこれも充分に安心せし如く分れを告げて立ち去りたり。

此の翌日(火曜日)判事は裁判所に出動すると第一に先ず虎太一人を我が前に呼び出すに、一夜を檻の中にて明かせしだけ顔色は青冷めたれど、成る程散倉老人の言いしに違わず弁解の工夫を定め居るものか、何所やら通例の罪人と様子かわれり。判事は先ず土曜日の夜に丹三が汝の家を尋ね来しやと問い、然りとの答を得て、

「シテ其の用向きは何であった」

虎「ハイ、細工物の注文でした。此の度の仕事は随分大きいから、虎太、手前が引き請けて誰でも手前の気に入った職人を使い手を分けて遣らせて呉れと云いました」

判「詰り其の方に請け負わせたのだナ」

虎「左様に御座います」

判「夫は全体不思議じゃないか。手前は自分が職人だろう、請負人ではあるまい。丹三は家に沢山の職人を抱えているし、夫々其の職人に割りふって余る分だけ外へ出すのだから、其の方に向かい是だけの細工をしろとは注文しても、此の細工を人にさせろと請け負わせる筈はない。好いか、丹三自身が請負人だぞ、夫を他人に請け負わせるなら同業が幾等もある、其の同業へ下請けをさせずに細工人の其の方へ下請けをさせるとは今までにない事だ。真逆に細工人を請負人と間違えた訳ではあるまい」

虎「でも確かに私へ請負わせました。夫に何でも、己も段々取る年で健康も充分でなく自分で職人に差し図するが面倒だから、貴様が一切引き請けて遣って呉れと云いました」

判「夫からは何と返事した」

虎「ハイ、夫は有難う御座いますが何分にも資本(もとで)がありませんからと答えました」

判「フウム、成る程旨く云うぞ、夫から何うした」

虎「致しますと、旦那(丹三)が夫では入用の金だけを前金に渡して置こうと云い、五千フランだけ取り出してお渡しになりました」

判「商人が五千フランの金を渡すとは余程自分の信用した者に限る訳だが、其の方に夫ほどの信用があると思うか」

虎「ハイ、永年此の業を営んで居りますので」

判「でも其の方が風儀の悪い事は評判に成って居る程で酒も呑めば遊びもする。夫を丹三が信用し五千フランの金を預けるとは合点が行かぬ」

虎「でも夫が実際です」

判「其の方は受取りを丹三に渡したのか」

虎「ハイ渡しました」

判「其の受け取りには誰が調印した」

虎「妻と私と両人で」

判「夫から何うした」

虎「ハイ、旦那は此の辺の道案内を知らぬから川向こうまで送って呉れと云いました。夫で私は旦那を送って橋を渡り土堤の所まで行くと最う道が分って居るから帰れと云い、旦那は巴里の方へ、私は家の方へ立ち分れました」

判「でも帳番の言い立てでは其の方が丹三を送って出てから一時間ほども目を覚して居たけれど其の方は帰って来なんだと云うが、何う云う者だ、橋向こうまで送って帰るには三十分と掛からぬ筈だが」

此の問いには流石の知れ者も悸(ぎょっ)とするならんと思いの外、彼少しも驚かず、相も変らぬ当り前の音調にて、

「ハイ、私は帰りながら一人で考えて見ると斯様な大仕事を引き請けて嬉しさに堪えませんから、前祝いに居酒屋へ寄り一時間ほど飲んで帰りました」

判「其の居酒屋の者は其の方の顔を知って居るだろうな」

虎「夫は何うですか、私は日頃我が家の近辺の酒店へ這入りますが橋の際の酒屋へは這入りませんから懇意でも何でもありません。夫に私の外に五六人の客も落ち合って居た様に思いますから」

判「其の客の中に其の方の知った者でも居なんだか」

虎「ハイ、知った者は一人もありませんでしたが、併し念の為、居酒屋へ人を遣り、土曜日の夜の十二時過ぎに斯様な男が来たかと問えば事に由ると主人が覚えて居るかも知れません」

判事は腹の中にて此奴思いしよりも太き奴なり、丹三を殺すには別に時間も掛からぬ故、其の後にて他日の疑いを言い開く為、大胆にも居酒屋へ入りたるも知らずと考えながら、

「夫ならば何も其の金を鳥籠の中などへ隠すに及ばぬ筈だ」

虎「イエ、実は日曜日の夕方に巴里へ来た同業の話で、旦那のゆくえが分らぬとて大騒ぎをして居る事を聞きましたから、若しも警察で旦那が土曜日の夜私の家へ来た事を知りはせぬか、其の上私が送って橋を渡った事までも探り出されては、必ず家探しを受けるだろう、其の時此の金を見い出されては何うしても言い開きが立たぬが何うしようと思った末、私は焼き捨てようと云いましたが、女房が夫より斯うするが好かろうとて鳥籠へ隠しました」

判「身に悪事の覚えもない者が、家捜しを受けるだろうなど心配するは不思議の至りだ」

虎「イイエ、心配する筈ですよ。現に家探しを受けたるのみか、此の通り捕縛せられ貴方に叱られて居るではありませんか。是を思えば焼き捨てた方が何れ程、好かったかも知れません」

と云う。判事も此の議論には敵し得ず、成る程、老人の言いし如く如何にも旨く言い開きの工夫を考えし者なる哉、と殆ど感心心想いをなし、更に又妻を呼び出して調べしも妻の言う所の口に違わず、充分に打合わせしたる者にても斯くまじと思わるる程なれば、判事は猶も秘術を盡くし及ぶだけ問い廻せど其の甲斐なし、さては我が疑いの全く間違いにして真実に無罪なるかと初めて危ぶみの念を起こしたり。

 

太夫婦の申し立ては充分に其の嫌疑を打ち消し、更に疑うべき所なき迄に言い開きたれば判事も殆ど困じ果て、早速散倉老人を呼び来たらせ、夫婦の言い立ての次第を聞かすに、老人は目を見張りて、

「夫だから私が夫婦とも充分言い開く工夫を定めてあると云ったのです」

判「夫ではまだ夫婦の者を疑いますか」

散「勿論です。貴方は夫婦を別々に調べましたか」

判「夫は最う云う迄もありません」

散「夫で二人の言い所が合って居ますか」

判「合って居るにも、寸分の違いなしサ、色々と問い廻したけれど其の甲斐なく、是で公判廷に廻した所が証拠不充分で放免せられるに極まって居る、少し又巧みな弁護人が引き受くれば世人は何故に予審判事と探偵が此の様な無罪に極まった者を法廷に廻しただろうと却って二人を嘲ける事にもなりましょう」

散「へへエ、彼の大金が鳥籠の中から出たと云う立派な証拠があッても猶証拠不充分ですか」

判「爾ですとも」

散「是は情けない。宜しい判事よ、私が其の証拠を集めます。何うでしょう、此の上塩田丹三の死骸を見い出し其の傷を検めて、傷と凶器を鑑定し其の兇器が日頃虎太の持って居た物だと分かれば、エ是でもまだ不充分でしょうか」

判「イエ爾なれば余る程の証拠ですが、併し夫まで探し出す見込みがありますか」

散「見込みと云ってはありませんが見込みのないのを探すのが探偵の役目でしょう。此の儘罷めては私の名折れになります」

判「夫は如何にも御尤も」

散「では私に十五人の手下を貸して頂きましょう」

判「エ、十五人」

散「ハイ、言い損ないではない、全く十五人です。私は手を分けてホーローベンと巴里の間の川底から溷(どぶ)浚えまで致します。其の上心当りの地方地方へ人を遣り、草を分けても突き留めます」

判「宜しい、爾なさい、爾なさい」

の一言を聞き老人は飛び立って挨拶もせず急ぎ去りしが、五分間と経たぬうちに又も判事の許に帰り来たり、何うやら少し落胆せし様子にて、

「イヤ判事閣下、十五人の手下と云いましたが、今まで一人で遣った者を手下に掛けるは如何にも深慨(しんがい)です」

判「深慨と云っても実際貴方の力に余る者なら夫を貴方一人に任せて置くと云う訳には行きません」

散「わたくし一人の力に余れば十五人の力にも余ります、ハイ、百人の力にも、巴里中の探偵の力にも余ります」

判「では何か一人で探る工夫が付きましたか」

散「未だ其の工夫は附きませんが是から付けるのです。先ず貴方の調べた筆記を拝見させて下さい」

判「虎太の申し立ての筆記ですか」

散「ハイ、其の筆記です、彼の申し立てを細かに吟味すれば必ず探偵の手掛かりを得ますから」

と云い、判事が差し出す筆記を受け取り、老人は無言の儘に読み初めしが筆記の一句一言に悉く打ち驚く如く或いは「之は何うだ」と叫び或いは「オヤオヤオヤ」と呟き、殆ど我が傍に判事の控え居るをさえ打ち忘れし体なりしが、頓て虎太の筆記を終わり、妻の申し立ての半ばまで読み到りし頃は呟きの声全く鎭まり、禿し前額(ひたい)に脂汗を浮べ来たり、顔色までも失いて見ゆるにぞ判事は此の老人何を考え附きたるやと怪しむに老人は漸く読み終わりいと遽(あわただ)しき言葉にて、

「判事閣下、直ぐに、直ぐに、今直ぐに、虎太を放免なさい、散倉は馬鹿です、虎太は無罪です」

と云い狂人の如く判事の腕に縋り付く。

判「貴方は何をなさる、気でも違いましたか」

散「ハイ、気も違う筈ですよ、散倉は一番下手の探偵だと云う事が分りました。判事よ、此の散倉は探偵でありません。素徒に劣ります。ハイ、全く自惚の強い愚人です」

判「エ、貴方は又何を仰有る」

散「本統の事を云うのです。貴方は自分で調べながら虎太の無罪が分りませんか。貴方は私より猶、愚人です、イヤイヤ爾でない、虎太の証拠不充分と云う事は私より先に貴方が気が付いた。矢張り愚人は私です」

判事は異様なる言葉に呆れながら、

「何故急に其の様な事を言いますか」

散「故も何もありません。私は今まで貴方の腕前を疑い、幾等調べたにした所が迎も充分に調べは出来ぬと思って居ました所、今此の筆記を見て其の問い方の旨いのに感心しました。何の判事でも斯う旨く問い落とす事は出来ません。夫だのに虎太夫婦の言い立てが猶寸分違わぬ所を見れば、彼等は全く有りの儘を言い立って居るのです。幾等前以て打ち合わせても斯う縦横十文字に問われては一々ロの合う者でありません。何所かで必ず口のこる事がある者です。夫だのに何うです、此の筆記で見れば少しも其の様な所が見えません、是が無罪でなくて何が無罪でしょう。サア、直ぐに放免なさい、無罪の人を一刻も留め置く事は出来ません」

判「イヤ、其の様に仰有っても外から実(まこと)の罪人が現われたと云う者でなし、未だ放免と云う訳にも行きません。私も無罪とは認めるけれど猶、一度調べて見れば」

散「では何ですネ、実の罪人を私が連れて来れば直ぐに虎太を放免しますか」

判「勿論です」

散「有難い有難い、私は是から探偵の方角を変え遅くも明日の夕方までには必ず実の罪人を捕縛するか、左(さ)なくとも虎太の無罪を証拠だてます」

と猶、懲りず間に言い切るは心に何か思い付きたる所ある為なるべし。是にて老人は又其の禿頭を振り廻して出で行きしが、翌日の午後も早や四時を過ぎ判事は最早、裁判所より退かんとする頃に至り忽ち一個の驚くべき報告に接したり、其の報告は即ち、

「塩田丹三の持ち物なる塩田商店は今朝に至り急に払い出しを停めたり」との一事なり。

扱(しごき)は信用厚かりし塩田丹三も人の知らぬ間に余多の損失をなし、其の商店を支え兼ねるほどの財政困難に落ち居たるか、左すれば丹三のゆくえ知らざる事件に就いても必ず散倉老人の探り残せし所あらんと独り疑いに沈む所へ、案内も請わず飛び入り来たるは、是なん散倉老人なり。老人は荒馬の狂う如き勢いにて、

「判事よ、塩田商店破産の報告を聞きましたか」

判「唯今聞いて驚いた所ですが夫に付き何か又――」

散「何か又ドコロではありません。アノ破産は斯く申す散倉が原因です」

判「エ、エ、何と」

散「実はナ、私は昨日虎太の筆記を読むうちに、ふと思い出した事がありましたから、アレより直ぐに塩田商店の取り引先を五六軒ほど廻り、塩田丹三がゆくえ知れずなったに付きアノ商店も信用が出来ぬ。取る者は今の中に取り立てるが好かろうと勧めました。スルと其の者どもが孰(いず)れも期限の迫った貸金がありまして私の勧めを尤もと思い、今朝直ぐに取り立てに行きますと、果たして私の思った通り商店は内幕が困難で僅か十万フランばかりの払いが出来ず戸を閉める事になったのです。何うです、幾等紳士と云われて居ても内幕は此の通りですから」

判「ですが貴方は何うして其の様な疑いを起しました」

散「夫は外でもありません。丹三が土曜日の晩、虎太の家へ行く前にナット倶楽部で生命保険の事を話して居たと云う事を思い出し、夫から疑いを起こしたのです」

判「とは又何う云う訳で」

散「其の次第は追々に申しますが、私は昨夜の中に保険会社を調べた所、丹三の命には二十万フランの保険が附いて居るのです。ですから若しや丹三が財政の苦し紛れに逆も商店を維持する事は出来ず去ればとて外に金の算段はなし、此の儘居ては生き恥を晒すのみか、妻子にまで難儀させると思い自殺する気になったのです」

判「成るほど、自殺して二十万フランの保険金を取り、夫で妻子に後の始末をさせる積りに」

散「爾です爾です、所が保険会社の規則として自殺は総て禁じてあります。何処の保険会社でも自殺した者に保険金を払うと云う事はありますまい」

判「成る程成る程」

散「だからして彼は他人に殺された様に見せ掛ける工夫を定め、誰が見ても虎太に疑いの掛かる様に仕組んで於て出奔したのです」

此の言い開きに判事は感心して卓子を打ち叩き、「成る程爾です、分りました、自殺では保険金が取れぬから、成る程、夫で他人に殺されたと見せる為、成る程、日頃から風儀の悪い職人虎太の家を訪い、成る程、彼ならば随分人殺しの疑いを受けると思い、フム成る程、夫ゆえ彼に五千フランの金を渡して、成る程成る程、シテ見ると仕立屋へ寄り上被(うわおおい)のボタンを落とし、夫を縫い付けて貰うに仮托(かこつ)け衣囊の中の金を出したのも、馬車を呼んで貰ったのも総て探偵に手掛かりを与え虎太を疑わせる準備でありましたな、成る程成る程貴方は実に愚人どころか古今独歩の探偵です」

と云い、判事は直ちに虎太夫婦に対する放免状を認めたり。

以上は是今より数年前の事にして、今は彼の塩田商店も全く潰れんとする所を丹三の娘と或る銀行頭取の息子との婚礼調いたる為其の郷の持参金にて取り直し、職人虎太は我が平生の不身持より斯かる疑いを受くるにも至りしを悔い、真人間なる職人となりて、新塩田商店に雇われたり。散倉老人は頭禿げても探偵は罷めぬ由、目出度し目出度し。

 

都新聞(明治24年1891年10月31日から11月5日に連載と推測)

 

底本:別冊・幻影城 黒岩涙香集(1977年1月)

底本についているルビを( )表示とし、さらにodd_hatchが適宜追加した。

伊藤英雄の解説をまとめる。1970年代半ばの状況です。
1.東大の明治新聞雑誌文庫所蔵の「都新聞」には明治二十四年五月より翌二十五年四月まで欠けていたが、このたび一部の切り抜きが発見された。それが「紳士のゆくえ」。
2.この直前には「如夜叉」を連載していたが、月末近くに終了したので、月替わりのつなぎとして短編を訳したと考える。このあと明治24年11月8日からポアゴベイの傑作「ルコック氏の晩年」の訳「死美人」の連載が始まった。
3.「紳士のゆくえ」の原作は不明であるが、散倉(ちらんくら)探偵はガボリオー「ルルージュ事件」の翻案である「裁判小説 人耶鬼耶」の素人探偵散倉と同一人物らしい。なのでガボリオ原作と思われる。

 

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