明治の半ばに、神懸かりになった中年女性が救霊の啓示を受け、人救いの道に入る。彼女の人柄に惹かれた人々が入信し、ある被差別部落が部落を上げたりして参加した。そしてやりての中年男性が教組に拾われ、幅広い信仰運動を始める。最初は(たぶん)奈良県の地方的な集団であったのが、十数年もすると全国的な組織に変貌した。信者には小市民やインテリなども入るようになり、教義を整えることにもなる。もともとは無学な農婦の教えであったのが、仏神道を(そこそこ)しっている現在の教主のために神仏混交の不思議な教えに変貌していた。大きな特徴は天国浄土を否定し、強い宿命論・終末論をもっていて、自殺を否定しなかったことだった。それは「祭政一致」の宗教国家・大日本帝国の皇国イデオロギーに抵触することになり、次第に弾圧が強まる。ついに、昭和6年、治安維持法違反によって教主以下7人が逮捕された。このような20世紀初頭の新興宗教の盛衰を描く。
官憲の不当逮捕や施設の破壊が起こり、メディアのデマプロパガンダで嫌がらせが相次ぎ、教団が販売する商品(農作物、織物、焼き物など)はダンピングされ、信徒らは職業や居住を脅かされるようになる。もともと自給自足を旨とする教団であり、教義が不問である間は、貨幣経済のなかで経営することができた。しかし、大日本帝国はこのような「異端」を許さない。大きな理由は皇国イデオロギーの中心である天皇を敬わないことであるが、さらに教団と自給自足の集団は日本の帝国主義経済を脅かすからである(ほかには男女平等、信徒間の性交の容認、教団内だけで通用する貨幣の使用、加持祈祷なども抵触する)。そこに宿命論と教主の命令の絶対遵守を持つ教団は国家との対立にあたって妥協することがない。
この大長編で作家は新興宗教と国家の対立をみるのであるが、同時に教団の特徴の最後にある宿命論と教主の命令の絶対遵守というルールから、作家が他の小説で描いてきた「憂鬱なる党派」に連なるものだとわかる。その点では作家のテーマはデビュー作から一貫している。もともと破滅することが定められているものたちが抗いながら没落していくのだ。冒頭で教主他幹部が逮捕され残された教団幹部らが対策を協議する。効果的な対策などあるはずもなく、長い評定をすることになる。そこで問題にされるのは、一人の迷い者を救うのか、九九人の信仰者を救うのか。前者を選ぶのはイエスに近く、後者を選ぶのは大審問官(「カラマーゾフの兄弟」)に他ならない。他の小説ではめったに見られないドストエフスキーの主題がここでは重要な問題としてあげられる。
ロマン主義と異なるのは、破滅や没落に美を見ようとしないこと。時代は不況と凶作と515事件事件を反映している。大企業と大地主の意向を反映するしかない政党の政治は、これらの問題を解決することがなく、国民からさらに税金を搾り上げ、徴兵で労働力を奪っていく。そのやり方はひのもと救霊会にも当てはめるものであり、幹部の裁判、主要信徒の徴兵、女性信徒の出稼ぎなどによって信仰集団の力を削いでいくのだった。失火か放火かわからない本部の棟からの出火で地元消防隊の出動は遅れ、教会施設は灰塵に帰す。その行く末に悲愴美を見出すキャラはいない。そのうえ、作家は語りに徹し、詠嘆もしなければ慟哭もしない。たんたんとした筆致の奥にこの物語を書かねばならないという決意は見えても、安易に読者を誘導する技巧は使わない。
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2024/03/04 高橋和巳「邪宗門 上」(新潮文庫)第2部 挙国一致の翼賛体制で大衆・庶民は政治参加する楽しみを得る。窮乏による不満と不安はマイノリティにぶつけられる。 1966年
2024/03/01 高橋和巳「邪宗門 下」(新潮文庫)第3部 大日本帝国の罰と責任を引き受ける宗教集団による「本土決戦」。 1966年