夜の寂しい顔 ・・・ 田舎の漁村に高等学校受験勉強に来た15歳の少年の心象風景。父は死に、母は彼を邪険にし、姉も死んでいる。家庭で孤独で、漁村においては生産活動に参加できないことでも孤独。夢見るのは母性への憧れと女性へのサディスティックな感情。この早熟で神経質な少年は「自分には存在がない」とつぶやくのだが、確かに「自分」をベースに存在を考えるとこういう無根拠性とか不条理にさいなまれるよなあ。中年の目からすると存在がないのではなくて、社会的な役割を担っていないということなのだと思う。20代で読んだときは、まるで自分を書いているように思えた。
影の部分 ・・・ 売れない中年の画家。妻のほうが画家として売れているので、彼はいじけている。この男には同年代の女性の友人がいて、その娘に好かれている。この友人は彼との結婚を拒否し、娘は別の男に嫁いだ後、自殺する(この自殺のモチーフは福永作品に多いな)。画家は悄然として、過去を追憶し、現在の不満を漏らす。ここでも、すべてはすでに終わっている・幸福は回復しない・あのときこの選択をすれば今は違うはず・これからは悔恨と孤独に生きるしかない、というロマン的な心情が綴られている。
未来都市 ・・・ 「影の部分」の主人公がそのままでているような感じ。絶望した画家が「自殺酒場」にふらりとよると、バーテンから「薬」をもらう。意識を失うと彼は「未来都市」に来ていた。彼のような絶望、自殺願望をもつものを矯正する実験のために、画家は拉致されたのだった(導入から中盤にかけてのストーリー展開と都市の解説はあまたあるユートピア・ディストピア小説の形式そのまま)。この未来都市は、「哲学者」を評議長におき、5つの局が生活を管理。人々は集団創作にいそしむ。生産がどのように行われているのかはわからない。都市の理念は、芸術=哲学であり、芸術活動を集団で行うことにより(ここはスターリン時代の「社会主義リアリズム」を想起させる)、国家の運営と人々の幸福が実現されるというもの。個々人の感情とくに愛は存在しない。19世紀末の芸術観が具体化した芸術都市である。その中身は、プラトンの哲人国家であり、共産主義国家であり、カルト宗教の集団施設でもある。画家というアノマリー(異端者)は愛の記憶を失うことができないので、都市を離脱しようとする。ここらへんはゴダール「アルファビル」だな。
<追記 2023/3/8> 芸術国家構想は、ウィリアム・モリス「ユートピアだより」由来かも。
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廃市 ・・・ 水郷の田舎都市に避暑にきた大学生。地所の夫婦、妻の妹の三角関係にまきこまれる。水郷都市は福岡県柳川市らしい。道が作られていないので、人々は舟で移動(舟上の出会い、会話、移動を書きたかったのではないかと思った。それくらいに登場人物が日本人的でなく、存在感の薄い・透明な・抽象的(芸術的)な人々)。登場人物たちは町が死んでいる、だから自分も滅びると諦念している。地所の夫は妻との不和で別居し、別の女を囲っている。妻は寺にこもりきり。夫は妻が自分を疑うから、妻は夫が愛しているのは自分ではないから、という理由で愛を断念している。夏祭りで夫は妾を大学生に紹介し、夏の終わりに心中する。その通夜で妻は妹を弾劾する、夫は妹を愛していたのになぜ答えなかったのか、と。重要なことはここでもすでに終わっていて、大学生は過去を確認することしかできない。彼は快活な妹に惹かれていることに気づくが、その愛もまたあかじめ喪失しており、断念するしかない。現実は過去を確認するためのもの、希望も将来もなく諦念をもって滅びが来るのを待つだけ。こういうセンチメンタルな心情を詩的な描写で描いたもの。
飛ぶ男 ・・・ 一日中安静にしなければならない男性患者(下半身が麻痺しているらしい)。ベッドの上で反転する程度のことしかできないので、妄想が生まれる。肉体をベッドの上に残し、魂だけが街中に出て行く(このときエレベーターで落下するのだが、これはアインシュタインの思考実験かしら)。そして重力に捕らえられた人々の中で自分だけが自由であると思い、地球の滅びる日すなわち重力から開放され////き、自分ひとりだけが自由を感じるだろう。寝たきりの男一人の妄念だけで書いた一編。途中はカタカナの流れる意識。主人公に感情移入できないとなると、書くことの実験ももはやうっとうしかった。フリオ・コルタサル「夜、あおむけにされて@悪魔の涎・追い求める男」(岩波文庫)を参照。
樹 ・・・ 画家を目指している男。療養中に知り合った妻と結婚して20年。子供が産まれ、3度目の個展を開くが、今回も買い手はつかなかった。まあ、こんなものだろうと過去を振り返ろうとしたら、妻が突然離婚を切り出した。あなたといっしょにいると自分が惨めで、本当の自分でないようなの。佐渡裕もブザンソン指揮者コンクールに出場を決めるときに、こんな会話をしたのかしら(彼は一等になって、この小説の結末のような仕儀には至らなかったのだが)。個展も失敗、家庭も崩壊、雨に濡れた樹の肌がまるで自分の気持ちのよう・・・って、かなり自己中じゃあないかねえ。あんたの自己陶酔はみっともないなあ。自称画家を肯定的に描く著者の立ち居地は、「告別」あたりで感じたところと同じだと思う。この人は妻に冷たい。
風花 ・・・ 結核で療養所にいる中年男の述懐。父は夢想的だが、生活力に乏しく、戦後事業を起こしたが、失敗して零泊している。自身は戦後北海道で教職につき、妻と駆け落ち風に結婚。子供も生まれたが、3年間前に発病して療養することになった。もともと少ない友人も来なくなり、妻も男友達と付き合うようになり、離縁を切り出した。まあ、俺はこの療養所に流れてくる風花みたいなもんだ、てな内面描写。内気な男が次第に孤独になり、思念は過去にさかのぼっていく。会いたいよおという願望とそれはかなうことはないという諦念。
退屈な少年 ・・・ 妻が亡くなった英文学教授の家。上の息子は大学生で、彼女と死ぬことが決まった友人がいて、三角関係に悩む。下の息子は肋膜炎で一年浪人することになった中学1年生(でも感情の動きや関心は10歳くらいだ)は、家庭教師と一緒に療養中。家庭教師は英文学教授にほれていて(自身が孤独のまま結婚適齢期を過ぎてしまったため)、どうやら教授も受け入れたようだ。ひと夏のどたばた(おもに中学生がいたずらすることで巻き起こる)が五人それぞれの視点で描写される。誰かの内面では納得というか合理的なことであっても、それを他人は理解できず、家族でありながら行き違いをしていく様子が描かれる。ここらへんの書き方は「忘却の河」で、大学生の息子をめぐる三角関係は「夜の時間」(結核を罹患しても無茶をして死期を早めた友人井口は「夜の時間」の奥村と同じニヒリズムの持ち主)、主人公の中年教授の内面は「告別」で、いたずら盛りの子供は「夢みる少年の昼と夜」「夜の寂しい顔」かな。福永文学の特徴が凝縮された一編。めずらしく破滅や諦念に落ち込むことがなく、明るい情景で終わる。
福永文学のロマンティシズムの主題は「会いたいよお」(@尾津乃つばめbyうる星やつら「純愛サクラ!別れのつるつるセッケン!?」)なのかもしれないなあ。諦念が待っているとはいえ、ここの短編に登場する孤独な人物たちは誰かに理解されたいと思っていて、誰かが自分を訪れることを望んでいる。でもこちらからは理解されようと表現しないし、会いに行くこともめったにない。だから「会いたいよお」と心中で叫んでいて、それが誰にも聞こえないのでさらに孤独がいや増すというわけだ。で、ときに行動しても常に遅く、何もかも終わっていて、会えないかもう去ってしまって取り残されたという仕儀になる。
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