odd_hatchの読書ノート

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笠井潔「復讐の白き荒野」(講談社文庫)

 北方四島近海で漁船が拿捕される。当時、ソ連の漁船を対象にしたテロ攻撃が頻繁にあったからだ。その漁船からは武器弾薬などが発見されスパイ容疑がかけられ乗組員は収容所に収監される。それから5年、国後島の収容所を脱走した間島勲は己の無実を証し、彼を陥れたやつらの復讐のために一人で攻撃を開始する。そこから明らかにされるのは、国際スパイ網と秘匿された戦後史、そしておのおの過去への執念を抱えた個人の歴史・・・。
 1988年に書かれた笠井潔のアクション巨編。上記のストーリーを見るだけならば、やくざ映画か西部劇か、復讐ものの王道をそのものだ。(5年前のことを説明すると、北海漁船が拿捕されたとき、船底から武器弾薬が見つかった。それは漁船製造の資金を提供した物流商事会社の陰謀で、その陰にはソ連GPGの大物スパイがいるらしい。乗り合わせた主人公・間島勲は下記のように行動民族右派の若い活動家。しかも1945年の満州ソ連参戦時に、捨てられた乳児で、どうやら重大な一族の出自であるらしい。という具合に、間島をめぐって、ソ連スパイ、やくざ、企業ごろ、公安警察、右翼に大物政治家が芋づる式に関係していることがわかる。)いかん、重要な小説を忘れていた「巌窟王」だ。間島の5年間の収容所体験はそのままシャトー・ディフの牢獄(エドモン・ダンテスの投獄先)である。
 とはいえありきたりのアクション小説と大いに異なるのは、主人公が右翼思想を持ち、「神風連の乱」を憧憬する行動派として設定されていることだろう。この設定、そして作中の国家批判などは、大江健三郎「政治少年死す」、三島由紀夫豊饒の海」に対する笠井潔の解答であるのだろう。笠井は「テロルの現象学」で観念論批判を行っていて、党派観念という集団に発生する観念を検討している。連合赤軍事件のような「異様」な事件、あるいは行動、判断の発生する根拠を集団に発生する観念から検討するというものだった。その方法をここでは右翼思想に対して行っている。観念は常に純粋化されるように働くものであり、多くの場合は観念の純粋化を求めるために現実の側を改変しようとする。もともと観念は現実を把握するための抽象化であるものが、逆転するという転倒に向かうことになる。より現実的と思われる左翼思想であっても、「革命」という幻視が主客を転倒させる。右翼思想の場合にはその幻視のイメージがあまりにも際立つために、容易にその現象は起こるということだ。
 主人公はこの種の復讐譚の主人公にふさわしく、現実に対して幻滅と怒りを感じている。彼自身には国家あるいは社会の変革の意思をもってはいるものの、党派運動その派生形態としての政治運動には幻滅しているということになるのか。それは上記の観念の転倒を知っているがためのことかな。
2005/09/02

 まずは世界は至高至純でなければならないということだ。われわれの見聞きし体験する「世界」「現実」というのはどうしようもなく汚れていて堕落している、あるいは矛盾の塊であり、虐げられた存在を無視し、物質的な富を増やすことや社会のヒエラルキーの階段を上ることに汲々としている。19世紀人はそれを克服する可能性として芸術を見ていたが、どうもそれは「力」を持たないもののディレッタンティズムブルジョアの格好付けに過ぎない。となると、この世界は「精神」(ここはなにが入ってももよい)によって改革されなければならない(ないし、激しい現実嫌悪・世界憎悪の精神によって焼却されなければならない)。その実現を行うのは、このような「精神」(ここはなにがはいってもよい)に覚醒し特殊な訓練を経た選ばれた人々の集まりである。それは世俗の権力と決定的に反逆するのであって、世俗権力との闘争に参加しなければならない。その闘争は、いま=ここだけの場所を変革するのではなく、宇宙的な変革運動と連動したより高次な段階に進む運動である。ここにおいて、「個」の存在というのは重要ではない、宇宙的な意思の運動に参加する小さな砂粒であり、それでよいのである、なぜなら宇宙的な意思が実現できたとき、それに参加したこの「私」の存在はそこにおいて「意味」を発見するからである。
 みたいなことが間島の思想かな。あれ、これと「熾天使の夏」の矢吹駆の思想ないし「バイバイエンジェル」の犯人の思想とどこに差異があるのかな。「精神」のところに「天皇」「国家」を入れるのか、「革命」「党」を入れるところの違いくらいなんじゃねえの。作中にでてくる八木沢なる右翼思想家の演説のタームを少し変えたら、左翼テロリスト(作者の作品にでてくるもの限定)とそれほど変わるわけではない。そこでは、この「私」の肉体は嫌悪するもの、存在の可能性を限定し飛翔を妨げるものなのであった。だから、間島も矢吹もシモーヌ(アポカリプス殺人事件)肉体をいじめ、肉体の限界を突破しようとする。その限界を突破するのは、肉体の破壊=死であるのだから、彼らはなんらかの仕方で(自死なのか観念的な自殺なのか愛人との心中なのか同士との自爆なのか、いろいろあるけど)、自己破壊を選ぶことになる。それができなかったものは、空虚な生をたんに生き延びることになる(「エディプスの市」参照。ここで高橋和巳「日本の悪霊」のラストシーンを思い出した)。
 とまあ、こんなところかな。だいたい作者の「テロルの現象学」をそのままいただいて書きました。最初は自己観念から始まり、肉体嫌悪ののちに集団観念にいたるという彼の観念の推移論をそのまま小説化したみたいに思えた。ナショナリズムだと「党派観念」まではいかないのかな。党は自分の外部だけと、ネーションは自分の内部に置くことができるからかなあ。あと問題は最初の世界認識かな。「世界は至高至純でなければならない」とすると、この現実は矛盾と汚わいばかりであって、そこを清浄にしないとこの「私」も汚れるという認識の仕方。ガキのときにオナニーやうそやけんかや盗み(ごめんなさい、ちゃんと見つかって罰を受けています。親の財布から失敬したのでした。そのおかげかどうかはしらないが、バイクを盗んで夜中に疾走したり、教室のガラスを割ったりはしてません)をしてきたものにとっては、世界の穢れよりも先に自分の汚さがあるので、間島その他のような人物の世界認識は理解しがたいのですわ。
 作者が「テロルの現象学」で示した図式はすごく使いやすいです。そのことは理論の正しさを保障するものではないけれど。そこからみると、大江健三郎「政治少年死す」も三島由紀夫「豊穣の海」も、これほどの図式化をしていないので、分りづらいかもしれない。
2011/04/23
 あとふたつの指摘をしておくとすると、サイキック戦争でポル・ポト派の虐殺国家批判を行ったのだが、ここではソ連の収容所批判(ふたつあって敗戦直後の捕虜収容所と1970−80年代まで残った政治犯収容所)が行われる。高杉一郎「極光のかげに」(岩波文庫)よりも悲惨な状況が描かれるのと同時に、高杉が慎重に避けてきた共産党員育成の話がある。重要な人物二人がここの出身であるとされる。
 もうひとつは、太平洋戦争の本土決戦(の回避)について。この主人公たちの考えるのは、結局この国は「あのお方」の「英断」によって本土決戦を前にして降伏したわけだが、(1)本土決戦を戦うことによって「民族」とか「国民」は純化するのであり、その戦いのなかで死ぬことが戦争の大儀を証明することである(ここは「バイバイエンジェル」「熾天使の夏」などの純粋革命論と共通するところがありそう。あと岡本喜八監督の「日本の一番長い日」に登場する井田中佐の独白といっしょ)、(2)それを放棄したのは遺憾、というかこの国に対する憎悪の源泉(上記の革命家たちも「人民」を憎悪するのだった)、(3)アジア諸国は本土決戦を行い、その戦いに勝利することで国家を建設してきた、そのような経験のないこの国はかの諸国に劣る、ということ。著者の小説には時々、この国が周辺諸国に占領され、ときとしては分割統治されるということが書かれる。もうひとつのありえたかもしれない戦後史を構想することで、この国のあり方を批判するというやり方。

復讐の白き荒野

復讐の白き荒野

復讐の白き荒野 (講談社文庫)

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