odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

脇圭平/芦津丈夫「フルトヴェングラー」(岩波新書) 旧制高校の教養主義体現者がカリスマ指揮者を語る。

 1980年代に岩波新書クラシック音楽関連の本を続けざまに出したことがあり、担当した編集者がクラシック音楽愛好家だったから実現したという(「岩波新書の50年」)。別の新書でも同様の企画があったので、勉強に利用した。安いのが何より。
 さて、ここでは珍しく演奏家で、しかも没後30年の記念であるというのが岩波新書の取り上げる企画では珍しい。「丸山真男」の名前が効いたのだろうかなあ。

フルトヴェングラーとその時代(脇圭平) ・・・ クルト・リース「フルトヴェングラー」(みすず書房)清水多吉「ヴァーグナー家の人々」(中公新書)では詳しくない1920年代ベルリンの文化の素描。文学、演劇などでは表現主義はすでに遅れたものとみなされていたが、作曲に関してはこの時代から始まる。そして演奏でもノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)が流行になる。あと、1929年の不況でドイツのサラリーマンが一斉に無職になったこと、また参加する音楽・組織する音楽がはやり(たぶんアドルノが「不協和音」で批判した合唱運動)、ラジオの普及によってコンサートの聴衆が減った。ナチスユダヤ人排撃を人々が歓迎したり黙認したのは、それにより職を得られる可能性を見たことかもしれない。さらに、啓蒙時代では芸術は民主や自由を主張するもので政治(絶対王政とか教権とか)を批判する力を持っていた。しかし市民社会の到来でこのような主張は意義を失った。この論理だと、政治は芸術であるというナチスの主張に対抗できなかった(では、どういう主張であれば対抗可能であったかはわからない、というのが自分の感想)。

芸術家フルトヴェングラー(芦津丈夫) ・・・ 自分なりに超訳すると、フルトヴェングラーは音楽を一つの有機体、生命のように考える。混沌(この場合、音楽を推進する力の源泉、生命あたりの意味か)から次第にフォルムを明確にしていって形象を形成し、死滅していくもの。なので、音楽は最初から最後までが関連し合っていて、ある一部はのちの一部を形成し、巨大なフォルムをかたどる基礎になるのである。このような音楽の最高峰はバッハとベートーヴェン。それ以後の西洋の音楽史は退廃の過程。時を経るごとに混沌と形象の力は弱くなっている。音楽家も偉大なるものを作る力を失っている。ついには無調や十二音、バーバリズムのような退廃に至っている。そのような状況で音楽家の役割は、混沌と形象の音楽の力を復活させること。そして、作曲家・演奏家・聴衆の参加する共同体体験を持たなければならない。そのような愛の共同体の場においてこそ、音楽は有機的であるのである。こんな感じかな。フルトヴェングラーのこのような音楽観をあらわした演奏はやはりベートーヴェン交響曲になるのだろう。まあ、なんて丸山真男五味康祐に似た考えなのだろう。くどいけどアドルノの音楽史と比べてみると面白い

フルトヴェングラーをめぐって(丸山真男/脇圭平/芦津丈夫) ・・・ フルトヴェングラーを考えるときの重要人物はあとふたりいる。ひとりはゲーテで、彼の有機体自然の考えは彼の音楽観に大きな影響を及ぼしている。ゲーテの自然観はサイエンスの世界では棄却された考え(生気論に近いのだろう)だけど、こんな形で人文の学者や知識人に影響をもっている。もうひとりはトーマス・マンこの詩人で作家も政治音痴であったが、アメリカ講演旅行中に帰国できなくなり、1938年ころからナチス批判を行うようになった。そのとき、批判の主な対象がこの指揮者。まあ、戦後、ドイツの知識人からマンは総スカンをくうことになる。単純には、安全なところで闘争を呼びかけるのはおかしい!王侯貴族のような生活で俺たちみたいに苦しんでいないのに!というやつだった。どっちが「正しい」という判断は3人の碩学も下していないので保留。たぶん、こうあらなばならないという普遍的な態度、姿勢はなくて、個別に見ていくことになるのだろうし、考えている人に災厄(という言い方は語弊があるけど)が来たとき、どう行動・発現するかで考えの内実が問われるのだろうな、と。大上段に「こうあらねばならない」と振りかざすのは危険であるのだ、という程度でここは終わりにしておく。


 もともとは3章の対談があって、それを新書にする際に出席者に論文を書くことを求めた。丸山真男だけ体調不良で書けなかった。そういう経緯があるので、1章2章と対談の内容にはかぶっているところが多い。それに、少なくともクルト・リースエリーザベト・フルトヴェングラーの本を読んでいることを前提にしているから、入門書のようでいて、ある種の知識を持っていないと論点を理解するのは難しいかも。
 あと、没後50年を超えたので、多くの演奏がパブリックドメインになって、ネットでダウンロードして聞くことができる。フルトヴェングラーの指揮姿を収録した映像もDVDなどで販売されている。なので、当時の読者よりも多くの情報を取得できるので、たくさん聞いて、指揮姿をみてからこの本を読んでみてください(といいながら品切れ・絶版の様子)。


ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫)→ https://amzn.to/4d75gvw https://amzn.to/4dc96nk
クルト・リース「フルトヴェングラー」(みすず書房)→ https://amzn.to/4d75Pp8
カルラ・ヘッカー「フルトヴェングラーとの対話」(音楽之友社)→ https://amzn.to/4aLtw4O
ヴェルナー・テーリヒェン「フルトヴェングラーカラヤンか」(音楽之友社)→ https://amzn.to/4b1rm1f
志鳥栄八郎「人間フルトヴェングラー」(音楽之友社)→ https://amzn.to/4b6kkrl https://amzn.to/4b85H6U
エリーザベト・フルトヴェングラー「回想のフルトヴェングラー」(白水社)→ https://amzn.to/4b7cMER
トーマス・マン「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」(岩波文庫)→ https://amzn.to/3xLPGp5
エドウィン・フィッシャー「音楽を愛する友へ」(新潮文庫)→ 
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウフルトヴェングラーと私」(音楽之友社)→ https://amzn.to/3QdECXY
脇圭平/芦津丈夫「フルトヴェングラー」(岩波新書)→ https://amzn.to/4b1rfCR
清水多吉「ヴァーグナー家の人々」(中公新書)→ https://amzn.to/49RoLVU
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中川右介カラヤンフルトヴェングラー」(幻冬舎新書)→ https://amzn.to/4b1reih
宮下誠カラヤンがクラシックを殺した」(光文社新書)→ https://amzn.to/4a4JkP7