odd_hatchの読書ノート

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笠井潔「哲学者の密室」(光文社)-4

2013/09/13 笠井潔「哲学者の密室」(光文社)-3

 もちろん1940年代前半、このような絶滅収容所の存在は秘匿されていた。しかし多くのドイツ市民はうわさを聞いていたという。なぜか。隣人が突然失踪し、あるいは隣人が前線から傷病兵として帰還していたから。なによりも、敗戦のあと、収容所から解放された数百万の人々が彼らの社会に復帰したのであるから。それに、収容所の解体のために多くの市民が動因された。連合軍の兵士が監視する中、ドイツの婦人が収容所の死体を埋める作業にかり出される風景を撮影したフィルムを見たことがある。すなわち、彼らは「見た」。死の哲学の帰結である数百万の死体を。
 そのことが「ドイツ人」に強烈な衝撃となったと見える。ここには、被害者と加害者の区別がつかないだけでなく、知らないから免責されるという方法をとることもできない。なので、この1930-40年の出来事にかかわった人たちはきわめて倫理的。物語には、ヴェルナー少佐の部下だったフランクフルトの元警官が登場する。彼が言うには、ナチス体験をした自分には法的には問われることがないとしても、この国家的な体験に対して自分は有罪であると考える。そして、もし自分の前に、収容所の囚人ないしその係累が現れ、彼を罰することを要求したとき、自分は彼の処罰を受け入れるという。なぜなら収容所を知らなかったというのは免責の理由にはならないし、収容所を開放する行動をしなかったことで数百万人を死に至らしめた自分の凡庸さが許せないと思うから。自分の言葉ではこのシーンをしっかりと伝えることができない。法や政治とは別の場所に、ナチス体験を免責しない場所があるのだろう。要するに、国家(資本=ネーション=ステート)の内部、ないし国家と国家の間とは別の場所に、このような「責任」の空間があるのだろう。なんとも名づけようのない場所で、その場所があると認識できるのはごく少数ではないかしら。
(翻ってこの国の経験を考えてみよう。この国の兵士もまた多くの死体を生産したのであるが、この国の戦争方針が海を越えた向こうで行うことだったので、この国の軍隊が殺戮した死体を市民が見ることは不可能だった。敗戦後、海を越えて帰る際に、死体を生産した兵士はそのことを語らないし、戦後10年以上の渡航制限は死体をみることを不可能にした。市民と兵士が見たのは、この国への無差別爆撃による死者だった。なぜか沖縄はこの国ではないことになってしまった。要するにこの国の人は死の哲学による無数の死体を見る機会を持たなかったのだ。)
 というような政治的な分析はこれでおわり。
 代わりに考えるのは、死を自覚的に見据えることで、その不可能的可能性から生の意味を取り出すという考えは、この作品の前に書かれた著者の小説の主人公にあった。九鬼鴻三郎(「ヴァンパイア戦争」)だし、間島勲(「復讐の白き荒野」)だし、宗像冬樹(「黄昏の館」)だし、竜王駆(「サイキック戦争」)だし。最後の名前は、「哲学者の密室」に即するとまさにジークフリートの生まれ変わりであることを自覚している。日常性に埋没し、宝を守ることに汲々とし、死の自覚を持たずに生を消費するだけの竜。凡庸の化身。その王となって、日常を戦場と化し、自分の特権的な死を追い求めること。こういう主人公の群れ。
 たぶんこの小説のあと、このような英雄は姿を消す。それはここでの矢吹駆の認識と一致している。すなわち、日常を戦場や蜂起の場所に変化したとしても、死の凡庸さ、日常の底知れない凡庸さが決意を内部から崩していき、目的が手段となり、自己の特権さを肥大化していくだけ。その先にある収容所群島を不可避にしてしまう。すなわち革命がすべて反革命に転落してしまうことを免れることができない。
(続く)