2013/09/16 笠井潔「哲学者の密室」(光文社)-4
というわけで、ハルバッハの死の哲学とその兄弟的なところにあるレーニン主義では、20世紀の収容所群島を克服できない。
では、どこに希望を持つか、ということになる。ハルバッハの死の哲学では、死は特権的であり、そこの対峙する主体(という言葉はたぶんハルバッハの退けるものだろうが、自分の乏しい言葉ではこう書くしかない)は常に意識的で、思考の方向は明確であることになる。これはたぶん収容所の外にいる立場でのみ成り立つ見方。日常と死の凡庸さが露出する収容所では、囚人も看守も、無名の無個性の、数に還元された死に圧倒される。すなわち、飢餓と疲労の極にある囚人には不眠の夜があり(フランケル「夜と霧」を参照)、看守は死者の顔やうなじが睡眠を妨げる。この不眠の夜では(半覚半眠で身体を動かせないときには)、主体とか意識は個にならない。そのときは誰のものともいえない存在の底知れなさが到来する。ついでにいうと、おそらくこの不眠の夜は、同時に悪夢の夜でもあって、主体とか意識を悪夢が追い詰め、自尊心とか個性とかそういう「私が私であること」が疑わしいものであり、「私」の重要性がまったく失われる。この無意味な「私」を「私」が自覚しているというのも、ガドナスのいう<イリヤ>であるのだとおもうのだが、いかがかしらん。たぶん、収容所の囚人体験をしたガドナスのほうが<存在>により深く達しているのだと思うのが、そこから希望をどうやって見出すのだろう。俺には分からん。
死を見つめるほかにも、本来的自己の可能性を見出す契機があるのではないか。ここでは「愛」と提示される。「私」とか主体とか個の存在というところから発すると、死や日常性の凡庸さの罠にとらわれてしまう。日常性に堕落するか、死の特権性に胡坐をかいて収容所を作り出すか。そうではなく、他者との不意の邂逅、到来、衝撃において、生の価値を高める意味をみいだすのではないか。そういう考え方。どうも俺のまとめだと、作者の考えをうまく掬えていないようだな。「愛」という言葉の問題かしら。愛をこじらせて、ストーカーのごとく、あるいは異端審問のごとく他者危害を正当化してきた例にいとまがないからなあ。ここらへんはまさに可能性としてしか書かれていないので、その先は別の本で確認することになるのだろう(「オイディプス症候群」で愛の現象学が展開される)。
もう一つの方向は、社会主義や平等主義は監視と抑圧の社会を作ってきたので、いずれも取らない。とはいえ、資本を社会的共有物にするという、社会民主主義やサンディカリズムの方向もとれない。ここらへんの理由は定かでないけど、組合による自主運営がユーゴにしろ、ポーランドにしろ、あるいは1930年代の不況におけるサンディカリストの実験で成功したためしがないからかなあ。ユートピア的に語るのは自分も好きだけど、企業の「民主経営」となると、うまくいかないのではないか(それこそ国家の支援や指導がないとダメという、矛盾を抱えてしまう)。ということで、彼のとるのは自由主義の極限化。とりわけ重要なのは、企業や組織の定年性と、相続の廃止。そのうえで国家を民主化すること。これはほかの本(「国家民営化論」)に詳しく、この「哲学者の密室」の主題ではない。なので、ここではその先は書かない。俺のような意気地なしには、そこまでラディカルでいいのか!と驚くような内容だな。
(続く)