odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

江川卓「謎解き「カラマーゾフの兄弟」」(新潮社)

 「カラマーゾフの兄弟」は米川正夫訳のを、古い河出書房版全集で、たしか5日間で読んだのではなかったかな。療養中だったもので、それこそ一日に10時間くらい読んでいたのだ。こういう読書だと飽きてくる(小説の内容にも読書という行為にも)のだが、そこは「カラマーゾフの兄弟」、まるで飽きることがありませんでした。とはいえ、登場人物約60名、それぞれに別個の物語、主題があり、大状況としての善と悪の問題があり、それらの主題をつかまえられたかというとまるでおぼつかない。いくつかの細部は鮮明に覚えているのだけどね。そこで、読み達者な先人の読書ノートを拝見することにした。
 ドストエフスキーは言葉に他の意味を持たせることが好きだった。たとえば「黒」という言葉から連想されるイメージを次々に文章に追加していくような。そのような言葉に注目していくと、通常のドストエフスキー研究とは違った視点で彼の人物と作品を読むことができるかも。それに加えて、バフチンではないが、言葉の多義性、文体の多様性によるポリフォニーも楽しみましょう。そんな具合で「カラマーゾフの兄弟」を読んでみよう、という趣旨。章ごとのまとめは以下の通り。

1.カラマーゾフという姓 ・・・ この奇妙な言葉は、カラ=黒、マーゾフ=塗るの合成語らしい。でも、カラには「天罰」「神罰」とか、男性性器とかの意味もあるよ。黒のイメージでも、プーシキンの詩の中に「黒い男」=父親殺しというのがあって、それをドスト氏は知っていたらしい。フェードル殺しをおもうと意味深だよね。書かれなかった第2部でアリョーシャが皇帝暗殺を企てるらしいが、そこまで布石を打っているかもしれないね。

2.黒いキリスト ・・・ 黒からイメージすることにはいろいろあるけど(たとえば悪魔)、この小説だと不幸とか苦悩だね。登場人物の中でとりわけ深い苦悩を持っている人物は、何かを塗られているイメージを持っているのだ(とりわけ「大審問官」の序章で母にうんこを塗られる幼女)。とすると、カラマーゾフ=黒を塗る人で、苦悩や不幸を強いる人というわけなんだ。色を塗られた人物はとくにアリョーシャのまわりにいる。彼らはアリョーシャと仲良くなることで、アリョーシャを強い人格に変えていったんじゃないか。アリョーシャは色を塗りかつ塗られることで、黒いキリストになったとおもう。(キリストの語源が「油を塗られたもの」であることからの派生)

3.好色な人たち ・・・ 第3編のタイトルは「好色な人たち」。通常それで連想するのはフェードルとドミトリィだけど、よく読むとイワンもアリョーシャもゾシマ長老もスメルジャコフも好色だ。しかも好色は甘いというイメージを一緒に持っている。

4.巡礼歌の旋律 ・・・ 近世ロシアでは巡礼が家々をめぐって喜捨をえていたらしい(彼らの多くは身体障害者)。彼らは巡礼歌を歌っていたが、主なレパートリーは「神の子アリョーシャ」と「ラザロ」。富裕な生活を捨てて信仰に生きた巡礼歌のアリョーシャは同名の人物の造形に影響していて、ラザロのいやな臭いはスメルジャコフやリザヴェータらのくさい人びと、あるいはゾシマ長老の遺体の腐敗などに反映している。ドスト氏は、読者が小説からこれらの巡礼歌を想起することを期待している。

5.薔薇と騎士 ・・・ ドスト氏はカソリックが嫌いであったが、ゾシマ長老にはカソリックの意匠がいろいろある。それはゾシマ長老をアッシジのフランチェスコに重ねるためだった。両者の人生の経緯はパラレルな関係があり、またゾシマは登場人物に「騎士」と呼ばれ、フランチェスコは騎士にあこがれたのだった(フランチェスコは「貧困」を姫とすることで騎士的人生を送った)。そこまでしたのは、イワンの大審問官という告発に対する答えをゾシマ長老の生涯でもって対抗しようとしたため。

6.3と13の間 ・・・ この小説でドスト氏は3と13に非常にこだわる。こだわりのあまり小説の細部につじつまがあわないこともできた。とりわけ3がイエスが布教を行った期間、13が不吉な数であることに注目し、それがアリョーシャにちりばめられていることに注意。書かれなかった第2部でアリョーシャは33歳で死ぬことが予想されるが、それはイエスの死んだ年齢と同じ。

7.蛇の季節の中で ・・・ 最終章で死んだイリョーシャを追悼する父スネルギョフは、凧が乱舞する空を語る。この凧はロシア語では蛇を意味している。作中には蛇が何度も登場し、たいていは男性原理=性器、および黙示録にある悪の支配のメタファーだ。蛇が30匹ほど飛んでいる空は、ドスト氏の考えるロシアであって、それは黙示録的な終末の世界であった。

8.白いキリスト ・・・ 18世紀末に鞭身派と呼ばれる異端ないし民間宗教が現れ、皇帝の知己を得るまでになった。この宗派では去勢すること、マリアを崇拝することを特徴とする。父親殺しスメルジャコフはどうやらこの去勢派であり、しかも位の高いものであったらしい。とすると、去勢派の去勢という行為は、フェードル殺し(父親=蛇の男性原理)につながる。スメルジャコフは去勢派の「白いキリスト」とみなすことができ、黒いキリスト=アリョーシャと対比される。ドスト氏は去勢派の白いキリストがロシアを救うとは考えなかった。あとイワンを訪れる悪魔とスメルジャコフが似ていることにも注意。

9.臆病なユダ ・・・ イワンは自分の思想をスメルジャコフに吹きこんで、いわば人体実験をしていた。そこにはスメルジャコフを「下僕」と呼ぶような傲慢さと侮蔑があり、農奴解放後とはいえ貴族の家人であるイワンは農奴スメルジャコフを人間扱いしなかった。しかしフョードルの死後、スメルジャコフは「自立」しイワンを思想的に追い詰めるまでになる(彼はイワンを臆病者と呼び、イワンにとってはオブセッションとなる)。ここにナロードニキの人民蔑視というか尊大さの反映を見ることもできる(そうだ)。また、スメルジャコフの扱いはユダとパラレルである。去勢派の「白いキリスト」が、物語の中ではユダ(裏切り者)とされる。

10.兄弟愛の表裏 ・・・ 「兄弟」がタイトルになっているのは、兄弟愛がテーマになっているから。ドミトリー、イワン、アリョーシャの3兄弟にとっては父親殺害事件は兄弟愛を再確認していく過程でもある(しかし、ドミトリーに対するイワンとスメルジャコフは、カインとアベルに模されてもいる)。スメルジャコフを兄弟に入れることにしたときには、兄弟愛は実現していない。また、アリョーシャの理想は世界を兄弟愛で包み、公平な分配を実現することであるが、事件の当時においてはまだ難しい。それはドミトリー、イワンがそれぞれ金に心動かされているから。スメルジャコフは金のために(も)事件を起こしている。

11.心の広さと大きさと ・・・ ドミトリーは「ソドムの理想」と「マドンナの理想」の桎梏に苦しんでいた。傲慢さ・高貴さと卑屈さ・好色が同居していて、衝動的にどちらかに大きくふれてしまうのだ。それを彼は農や土地で止揚したいと考える。ロシアの大地は、そういう矛盾したことどもをまとめて受容して、大きくするのだから。この「大きく」というのはアリョーシャの主題でもあって、最終章の少年たちの演説で繰り返される。死んだ少年とアリョーシャ自身をそれぞれの心に留め置き、大きな心でもって連帯を感じる共同体、教団を作ろうというのである。

12.実現しなかった奇跡 ・・・ ゾシマ長老がなくなった後、僧院の人びとは奇跡が起こるのを待ち望んだ。しかし遺体からは悪臭が漂い、奇跡は実現しなかった。さてその後、ドミトリーは素朴な感情でもって神の存在を確信し、イワンは無神論を大審問官という劇詩で陳述する。アリョーシャはイワンの無神論に動揺するが、民衆に無垢な心があることを知り(老監獄長グルーシェンカの語る「一本のねぎ」という民話)、人間のうちに宝物=愛することのできる魂を発見し悩むことをしなくなる。ちなみに愛することのできない苦悩は地獄の別名とのこと。

13.逆ユートピア幻想 ・・・ この世界は調和が取れているのではない。子供の歌や踊り、遊びが草の上で行われていてそこに「自由」をみても、そこには管理する大人がいて、秩序の破壊を取り締まり厳格な警備を行い、子供の行うことを規制している。このような世界の見方はイワンの大審問官に集約されている。ゾシマ長老の説教はその反論としては弱い。代わりにあるのはアリョーシャの法悦体験。これによって自己と世界を直接結ぶ回路ができ、11のような心の共同体の設立が約束される、という。

14.実在する悪魔 ・・・ イワンは譫妄症をもっているがどうやらアル中らしい。それがあってか、悪魔が彼の元に現れる。それも彼の30年後の姿と見えるのかもしれない。さて、イワンは無神論を主張するが、ディドロレーニンのような戦闘的無神論ではない。もともとは神の世界の住人であったが、世界の不幸・苦痛・悲嘆・貧困などの存在があり、神が介入・改善しないことに業を煮やして、自分の「入場券を神に返した」というもの。だから神の不在に確信がもてずに動揺している。神の元から離れた悪魔の存在は否定できない。彼を訪れた悪魔の論理をイワンは覆せない。イワンにとって悪魔は実在する。

15.カラマーゾフ万歳 ・・・ 最終章の少年たちの「カラマーゾフ万歳」の唱和はアリョーシャに向けられていると考えられる。だが、他の兄弟をみたときに、彼らの道行もまた「万歳」といえる人生の可能性を持っているのではないか。その可能性は「他界との接触(ゾシマ長老の言葉)」にある。ドミトリーは監獄の中で人生や世界の愚昧さを呪いながらもそれを克服する至高体験を経験する。譫妄症で人事不省のイワンも「生の渇望」を口にしていて、さらに「愛することのできる魂」が求める他者を獲得しているのであった。そしてカラマーゾフがロシアの象徴としてイメージされているとき、「カラマーゾフ万歳」はロシアの未来に対する讃歌なのでもある。


 翻訳では「○○」とあるが、原文では「●●」を使っていて、こういう意味を持っている。さらにこの「●●」の語源(あるいは名詞形)である「■■」という言葉には「◆◆」の意味がある。ドスト氏はそこまでの寓意(象徴性、関連性)を持たせていたのだろう。という記述が頻出する。もっぱら翻訳でロシア文学(に限らず日本語以外の言葉で書かれた文学)を読む者には、このような指摘に重宝する。上にあるように「凧が空を飛んでいる」という何気ない一文が「蛇が空に首をもたげている」イメージを持っているなど見当もつかない。そして「蛇」がフョードルそしてカラマーゾフ一族さらには男性性器のメタファーであり、さらにという関連はまず思いつくはずのないことだ。こういう指摘はありがたい。次回以降の再読の時、これを横に置いておくと、かつて読み飛ばしたところでにやにやできるだろう。

<参考エントリー>
2019/11/22 レフ・シェストフ「悲劇の哲学」(新潮文庫)-1 1903年
2019/11/18 河出文芸読本「ドストエーフスキイ」(河出書房)-2 1976年
2019/11/15 亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」(光文社新書) 2007年