odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

江川卓「謎解き「罪と罰」」(新潮社)

 「罪と罰」を読んだのは中学3年生の2月。高校受験の直前。もちろんミステリないしサスペンスとしてしか読んでいない。その主題の豊富さや深さなど気づいているはずもない。そろそろ再読しようと考えているので、解説書を読む。

1.精巧なからくり装置 ・・・ ドスト氏は、引用・言葉のリズム・音韻・語源・語呂合わせなど言葉の遊びで主題を文体と語彙に隠すというからくり装置を作った。この方法は処女作「貧しい人びと」から見られる。それは、テキストのみならず、表題・地名・章割り・人名・日付・数・句読点・活字の字面にまでおよぶ。「罪と罰」の「罪」のロシア語には人間の定めたおきて(法や規範)を超えるという意味で、神のおきてや良心にそむくという意味はない。この小説には「またぐ」「超える」「一歩」という言葉が頻出するがそれは掟(それは市民としては踏み越えがたい壁である)を超えるための飛躍というか決意を示している。

2.666の秘密 ・・・ ドスト氏の命名法の面白さはまず人名に現れる。ラスコーリニコフは分離派(ラスコーリニキ)からの派生名。その種の名前はいたるところにある。さて、このラスコーリニコフ、フルネームではロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフで、イニシャルはPPP(キリル文字で)となり反転すると「666」と黙示録の獣の数字。ここから中編の構想が大長編に拡大した。また、老婆殺害の画面ではラスコーリニコフ=太陽のイメージが重ねられる。老婆の名前は「おみつ」とでもいうべきロシア名。

3.パロディとダブルイメージ ・・・ 小説の方法としてのパロディ。冒頭、S横町、K橋などの地名が出てくるが、これは30年前のゴーゴリ狂人日記」、20年前のレールモントフ「シュトス」の舞台であった。ラスコーリニコフの部屋は「戸棚」と描写されているが、これもプーシキンの詩に由来する。ラスコーリニコフマルメラードフは周囲からは道化のように見られるが一方キリストに模せられる。これは福音書においてイエスが嘲笑の対象になる(民衆の熱狂を静めるために)ように道化た意匠をまとわされたことと照応する

4.ペテルブルグは地獄の都市 ・・・ ペテルブルクは人工的な都市。時の皇帝の命によって沼地に要塞が、つづいて監獄や寺院が作られる。19世紀半ばに人口が急増しスラムが形成される。ラスコーリニコフの住処はそのような場所。上記で「戸棚」と称された彼の部屋は母によって「お棺」と呼ばれる(一応、笠井潔「バイバイ、エンジェル」で矢吹駆の部屋がナディアによって「棺のような部屋」と呼ばれたことを想起しよう)。このようにペテルブルクは地獄の都市であった。ラスコーリニコフは田舎の生まれ。すなわち彼は田舎の「天国のかなた」からペテルブルクの「地獄」に落ちてきた「堕天使」であった。

5.ロジオン・ラスコーリニコフ=割崎英雄 ・・・ 2でみたようにラスコーリニコフは悪魔やアンチキリストにおもわれる。しかし彼には英雄のモチーフがちりばめられている。それは、ギリシャ・ローマ時代の英雄であったり、ロシアの民間信仰の対象であったりする。そこから彼は、人間的なもの・ことに関与し、知恵その他を人間にもたらすことを期待される。そういう名前やイメージが彼にはある。

6.「ノアの箱舟」の行方 ・・・ ペテルブルグは水の町。この小説のおきた年は記録的な猛暑。というわけでペテルブルグは水に浮かんだ船にたとえられる。同様にラスコーリニコフの部屋も「船室」と呼ばれる。このイメージからペテルブルグは「ノアの箱舟」に模せられる。ロシアの民話にはノアの妻をそそのかして箱舟に乗船する悪魔の話がある。悪魔はネズミに化けて船倉に穴を開けようとしたが、英雄は猫になってネズミを退治した。ラスコーリニコフは猫になるはずの鼠。マルメラードフも鼠であるが彼は箱舟から自殺によって下船したが、ラスコーリニコフは生に執着するあまり箱舟にとどまろうとする。

7.「罰」とは何か ・・・ 罰を単純に老婆殺しに対する法的処罰に捕らえては小説を矮小化する。まず、罰にあたることとして古い法律解説書にある「汚辱刑」というのがある。自尊心の高い犯人には狂信をあざけり恥をかかせることが必要という理論がある。それに照応するのが、ソーニャに宣告された大地への接吻と全世界への告白である。そこには周囲の人のあざけりと笑いがあった。さらに、「カラマーゾフの兄弟」ゾシマ長老の生涯にある「地獄とは愛することのできない苦悩」の照応する。ラスコーリニコフはさまざま機会で世界との断絶を実感する。そのような人物にとって愛は不可能。すなわち彼は行きながら地獄にいる。一方彼は生を渇望するものでもあり、ここでの断絶もまた絶望的である。これらが「罰」の総体。

8.ロシアの魔女 ・・・ ロシアの女性は髪を隠している。髪をむき出している女性は普通でない(たとえば娼婦とか)だ。で金貸しの婆さんはむき出しの髪の持ち主。老婆はロシア民話の魔女ババ・ヤガーに擬せられている。高利で金貸しをして、貧しい人びとを苦しめているから。ラスコーリニコフはこの魔女を殺して、彼ら虐げられた人びとを解放する英雄になる使命を持っていた。あとババ・ヤガーという魔女は金もそうだが、「生の水、死の水」を大事に守っている。ラスコーリニコフは魔女を殺すことで、魔女の守る「生の水」を獲得するというミッションも持っていた(彼は生を欲するがゆえに)。しかし、老婆と一緒にリザヴェータも殺してしまう。しかしラスコーリニコフにとってはリザヴェータは生きていた。ソーニャと同一視(どちらも「子供のような」容貌、表情)することで、リザヴェータを惨めさから解放したのだと考えたかもしれない。

9.性の生贄 ・・・ 「性の生贄」とされるのは、ソーニャとリザヴェータであるとおもわれるが私見ではそうではない。彼女らはおそらく「観照派」というセクトに属する。リザヴェータはその「痴愚神」に見立てられているところから巫女であっただろう。ソーニャもその一員で「観照派」の儀式は彼女の部屋で行われたはず。さて「性の生贄」であるのは、スヴィドリガイロフ。彼は借金で監獄送りになるところを5歳年上の女性に身請けされ、7年間独特の「口臭のある」女と生活(昼と夜)を友にしてきたのだった。彼の少女趣味(ドゥーニャという少女にほれる)も、このような7年間の「地獄」のためだろう。

10.ソーニャの愛と肉体 ・・・ ソーニャを身体を持たない「聖なる娼婦」というがそんなことはない。ラスコーリニコフとソーニャの数回の逢瀬は常に身体の位置をはっきりさせ、かつ言葉使いの変化、身体接触の進み具合を几帳面に計算しながら描いてる。とくにソーニャはラスコーリニコフの身体を求めている。「仕事」の男との違いを明確に認識。また、二人は呪われたものという自覚がある。それは「殺人者」と「娼婦」という社会に同調できないもの同士であること。とくにソーニャは意図してそうなったのではなく、貧困が彼女を「呪われたもの」にした。彼女と出会うことにとってラスコーリニコフは彼女に代表される貧困者、社会から見捨てられたものたちをいかにユートピアに招くかを使命とすることになる。

11.万人が滅び去る夢 ・・・ エピローグでラスコーリニコフの見た悪夢(せん毛虫が人類を狂わし互いに殺しあう)は、小説本論の終末、および当時のロシアの終末を象徴したもの。すなわち老婆殺しという殺人であり、貧困と不正のはびこるペテルブルクという都市の地獄である。終末を象徴するのは判事ポルフィーリィとスヴィドリガイロフ。いずれも都市という大淫婦にからめとられ、脱出できない(ゆえにラスコーリニコフに生の執着をみて、彼に自首=都会の脱出を勧める)。

12.人間と神と祈り ・・・ ラスコーリニコフの思想的遍歴は「ポドレーツ」という言葉の使い方に現れる。これは「卑劣な者」と訳されるが、語源的には「下にいるもの」。小説の半ばでは、「ポドレーツ(下にあるもの)」は上にあるもの(神)ではないかという疑問になる。逆説的に「人は神である」という人神論となる。しかしこの理論はラスコーリニコフの中では挫折する。かわりに自首の直前には自分自身が「ポドレーツ」であるという自覚に変わる。これも含めてラスコーリニコフの逡巡は「人−神−悪魔」の三者をいったりきたりする。

13.13の数と「復活」神話 ・・・ 「罪と罰」は1865年7月8日に始まり20日に終わる13日間の物語。7月20日は聖イリヤの祝日。それから1年半。シベリア流刑にあるラスコーリニコフの復活が訪れる(その前にせん毛虫による人類大量死の悪夢があった)。復活祭の週の朝、ソーニャと会い不意にラスコーリニコフはソーニャへの愛を自覚する(このシーンは聖書のイエス復活を下敷きにしている)。「殺人者」と「娼婦」の呪われたものがユートピア、パラダイスへの入場資格を得た瞬間。さて、問題はラスコーリニコフは自分の「罪」を自覚しているものの、行動を後悔していない。同様に、人神論や英雄論などは保持されたまま。どこが違うかというと、ペテルブルグ時代は孤独で思弁的であったものは、囚人との共同生活を通じて彼らの境遇を理解したこと、彼らとの交友ができるようになったこと。もしかしたら、彼らの「新しい生活」は真人間に更生することではなく、彼ら虐げられたものたちのために行動を起こす(もしかしたらアリョーシャのような革命家になること)であったのかもしれない。ここは著者の「妄想」も入っている。


 著者がいうようにこれまでのドスト氏の小説の解説や評論は、読者があまりに主人公に肩入れないし同一化していて、観念的、一方的なものであったに違いない。シェストフ(「悲劇の哲学」を入手してずっと昔に読んだ。いずれ再読しよう)とか小林秀雄のもそれを免れてはいないはず。こうやって小説を客観化し、それこそミステリのようにそこここに散らばった手がかりから、事件の全貌を推理するというのは、面白い試み。というか、たぶん再読したときに、読者の読み方が鋭くなる(それまでうっかりと読みすごした小さな語句から、さまざまな連想、イメージ、妄想を膨らませることができる)。そういうわけで、前回は米川正夫訳だったけど、次回の再読は江川訳(岩波文庫)を読んでみようかしら。
 あとロシア正教の情報もあるほうがよいので、高橋保行「ギリシャ正教」(講談社学術文庫)もあわせて読む。またロシアの歴史もおおざっぱに知っておいたほうがよいので、外川継男「ロシアとソ連邦」(講談社学術文庫)も読んでおこう。