odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「M/Tと森のフシギの物語」(岩波書店)-2

 とんとある話。あったか無かったかは知らねども、昔のことなれば無かったこともあったとして聴かねばならぬ。よいか?うん! という合図で始まる長い長い話。それは龜村と外村から呼ばれる谷間の村の神話=歴史。いくつかを要点だけ取り出すのは、神話=歴史を総体として知るには全く誤った方法だが、限られたテキストの中ではそうしなければならない。
・海沿いに藩があったと思いなせえ。そこで反抗の気分あふれる下級武士25人が追放されることになった。加わったのは海賊の娘25人。彼らを乗せた船は藩主たちの思惑通りに外洋にでて難破するのではなく、川をさかのぼり、大岩塊で遮られ悪臭の漂う山の麓に到着する。そこを爆破して、瘴気のある湿地帯を開墾することにした。その場所の穢れは藩士の追求を遮るに充分な地政をもち、なにより深い山に囲まれていた。
・初期は「壊す人」と.いう男性とオーバーという女性によって率いられる。半裸で仕事をし、ひとつの集会場に共同で寝泊りする生活。なぜ指導者が「壊す人」であったかというと、大岩塊に始まり、川瀬から森の木々に、家族の関係まで、それまでに「自然」とできていた秩序を壊している人だったから。しかも100歳を過ぎて生きながらえ、巨体に成長したといわれる。まあ、創世神話にでてくる英雄にして、お調子者であったわけだ。
・このあと、初期移住者の裁判、昇天の様子、「壊す人」への反感と「シリメ」なる白痴による暗殺など興味深い話が盛りだくさん。
・この「自由時代」で山村にこもっていながらも、山道のルートで交易をして、富を蓄積していたという経済史の話も面白い。
・で、幕末の藩の逼迫で下流の人々が逃散してきたことで、隠れ里の平穏な日々は終了。富のある村を支配下においたことで、藩は過酷な税の取立てをすることになり、自ずとそれは一揆になる。ここで活躍するのが「亀井銘助」さんというお調子者。彼が藩主を相手に巧みな交渉をやってのけ、誰ひとり懲罰をうけることなく、一揆と藩の調停に成功。でもって、戸籍制度に取り込まれないように、「二重戸籍のカラクリ」をやってのける。
・それはほぼ80年は露見しなかったが、1920年代の金解禁と金輸出停止によって逼迫した政府の命令で、この村と国家の50日間戦争になる。ここの巧みな戦略が面白い。
・重要なのは、代々の村の指導者、長老は「壊す人」の夢を見て、その指導でもって村の政治を行ってきたというところ。運営は長老たちの合議にあっても、決定が夢の指示。
・まあ、この国の歴史は中央が地方を制定し、権力を隅々にまで浸透させていく運動であり、紙に書かれていることが必須だった。でも、この村=国家=小宇宙の場合、この国の中央権力とは無縁であったし、つい最近までは国家に抗することを決意できる場所であった。その神話=歴史は紙に書かれたことはついぞなく、代々の口承でもって伝えられてきた。このような国家に抗する社会、自立していながら世界と交通できる場所がこの国にあった、ないし想像力のうちでもありえると考え雨のrは愉快なこと。たぶんそのような伝承に近いのは沖縄や東北にあるのではないかな。
・あと、人々の魂は森から届けられ、人間の生を生きて、役割を果たした後に森にもどり、木々の根元から森に帰るという。超長期的な魂の生まれ変わりがあるというわけだ。この運動のもとになるのが「森のフシギ」であって、魂はこの一部であるという。こういう生命観とか宇宙観が村の人々に共有されている。これはこの国の正史や生命観と通じないところをもっている。
 こうやって語られた神話=歴史は祖母や長老たちの伝えたそのままの姿であるのではなく(そうであればもっと古風な言葉と文体で語られた)、「僕」や作家によって再解釈・変容されたもの。そこにある反国家、反権力、自立のモチーフは彼らの強調したものであっただろう。そこは興味深いけど、ここでは別のことに注目。
 「同時代ゲーム」では「50日戦争」ののちに、作家の幼少時代の記憶を書く。それは祖母の「教育」が始まる前に、森に神隠しに合い、自身は全裸で森のあちこちを訪ね歩く。それは森のあちこちに分散した「壊す人」のカケラを集め、再生指すことだ。そしていま集められた「壊す人」は犬ほどの大きさになって妹のそばにいる、という。神話=歴史を再生させ、物語の想像力を現実にもたらす希望を込めたものだった。
 今回の再話では大幅に書き換えられる。上記のモチーフは書かれるもののの重要ではない。代わりに80歳を過ぎた母と「僕」の障害を抱える息子(20歳になったばかり)との交友が語られる。ここの個人的な語り合いがとても印象的。母は「僕」に神話=歴史を語ることはなかったけど、息子には問わず語りに一週間も語る。それをよく理解したかどうかはわからねども、東京にもどった息子は「Kowasuhito」と命名したピアノ曲を作曲する。ここにおいて、森と村の神話=歴史がそれを書くことを選ばれた「僕」で完結するのではなく、現実に生きているより若い世代に伝えられる、その息子の生そのものが神話=歴史になるという理解が生まれる。このように変えられた物語のほうがより読者の心に染むのではないかな。自分は、魂は森から生まれ森に帰るという宇宙観をもっていないで、生は一回限りで魂は死とともに霧消するという具合のいわばニヒリスティックでシニカルな見方をもっているのであって(まあ魂は転生するかもしれないけど、いわば初期化されて生で体験した記憶や人格、感情は消えると思っているのだ)、実に美しいな、そのような仕方で記憶と記録が伝承されるというのはよいことだなと思うのであって。
 そのような感情も本を閉じれば(タブレットPCの表示を消してしまえば)、きえてしまい、世知辛い世間と社会で日銭を稼ぎつつ様々な悪感情を押し殺したりする日常におしつぶされてしまうのだけど、時に記憶で反芻するこの物語はなるほど読者の心を慰め、鼓舞することがあるだろう。ああ、優れた強い小説だった。

    

(雑誌Switchの1990年5月号が大江健三郎の特集で、家族が村に帰った様子の写真が掲載された。そこには障害を持つ息子と作家の母が登場。この本の最終章に近しい雰囲気が撮られていた。以下では表紙だけ紹介します。)


2016/01/15 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-1
2016/01/14 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-2
2016/01/13 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-3
2016/01/12 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-4
2016/01/11 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-5