odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-4

2016/01/15 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-1
2016/01/14 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-2
2016/01/13 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-3


 この小説を出す前に作家は「小説の方法」岩波書店を出していて、そこにこの小説のたくらみが詳細に説明されている。それを読めば、この小説の複雑さをときほぐすことができる。たとえば、この小説が「妹」に向けた手紙として書かれているというのは小説を書く理由を説明するための方法であるとか、高等教育を受けた人の明晰な現代共通語のなかに四国の田舎のなまりやメキシコの日系人の怪しくなった日本語その他が混在するのは書き手の文体を多様にしているとか、糞や臭いにおいや死体などのグロテスクなものを頻出するのも(「M/Tと森のフシギの物語」ではひかえめ)日常を異化するものであるとか、壊す人・カメイメイスケ・「僕」他が笑いをとるような道化た仕草や話をするのも日常のルーティンから生き生きとした哄笑を湧き起すトリックスターの役割を振ったためであるとか、神話や歴史の事件で全体を説明しながら細部のイメージに固執するのも小説の構想を膨らませて多様な読み取りをさせるためであるとか、ラストシーンで語り手「僕」が深く暗い森を意味に満ちた世界として見出しすべての登場人物が一堂に会するヴィジョンをみるのもデカルト以来の均質な時空間で物語を見る行為から離れて世界を異化させるためとか、過去の作品のモチーフを頻出するのは作家にとっては自己批判の試みに他ならないとか、「僕」の家が村の最も低い場所にあり大雨がふるごとに人糞の浮かんだ水に没する一方父は神主として最も高いところに住んでいるというのは村や国家のありさまを通常のヒエラルキーを脱した最も低いところと最も高いところから見ることの暗喩であるとか、都市・権力から最も離れたところにある村を舞台にするのも社会の周縁からの視線で中心を相対化するためとか、双子の妹にエロティックな妄想を持つ「僕」の一方的なありかた(親密でありたいと願いながら妹に断固拒否されている)のはムジール「特性のない男」の双子の関係をなぞっているとか……。とまあ、作家の使ったテクニックがこうして披露されているので、読者はネタのわかった手品を見るように小説をよむことができる。ので、理論編「小説の方法」と批評編「方法を読む」を合わせて読んでおくと、実践編「同時代ゲーム」の複雑さはだいぶほぐすことができる。実際に今回3度目の読み直しのまえに、これらの姉妹書を読んでいたので、実にわかりやすかった(というかノートをとりやすかった)。
 これだけの方法を駆使し、複雑な物語を組み合わせながら大きなストーリーを運ぶ。社会、歴史、文学などの広範な指摘と批判を持つ。こんなところに登場するのはおかしいと納得したうえで、数世代の長い神話と歴史を一族の物語として描いたところでマルケス百年の孤独」に、方法と文体と主題において同じく「族長の秋」に匹敵する。これらの世界的な作品に伍することができるというだけでも、この作品は傑作だ。おれにとっては作家の最高傑作に他ならない。読了後に、改めて確信した。
 この大作は作家の最後の仕事ではない。このあとにも30年に及ぶ創作活動がある。この小説は創作の集大成であると同時に、そのあとの始まりを告げてもいる。このエントリーではここから始まったことをいくつか抜き出してみようか。
・「第六の手紙」のラストシーンにあるヴィジョン、そして村=国家=小宇宙の発端(ないしこの地を聖なる場所とした存在)である森のフシギ。宇宙的な認識やつながりを喚起するような仕掛けは、そのあとも続く。「治療塔」「治療塔惑星」など。のちになるほど、トンデモに近しくなる(チャネリングとか異星人との接触とか)ので自分は敬遠します。「同時代ゲーム」の「ひとつぶの大きな涙」の形をした森のフシギのあり方のほうがそのとおりと納得できる。フシギはアニメ「となりのトトロ」の怪物のように自然とか森とかのネーションとのかかわりを持っているので、心理的な距離は近いからだろうな。
(以上を書いたときには1970年代の小説を再読していなかった。「洪水は我が魂に及び」「ピンチランナー調書」などですでに宇宙的な意志との交感と救済という主題に触れている。)
・家族の描き方。ここまでは父や兄(ないしメンター役の年長者)はとても強く、「僕」「私」は抵抗しえない。母の存在感は薄く「僕」「私」に影響を及ぼしたりはしない。妹や弟は「僕」「私」が庇護する存在だった。そのような家族の関係はここで終了する。このあと、語り手を支配する強権的な父はいなくなる。父がいる間は、「僕」「私」は余所者・余計者と自己規定して、利害関係のない第三者あるいは傍観者であった。それができなくなり、事態に積極的にかかわり、判断と指示を下していかねばならず、自分と家族ほかに責任を持たなければならない。優柔不断で余計者意識を持ち道化ることでしか他人とコミュニケーションのとれない「生徒」としての語り手が父の役割を担うことでなる。新たな役割を担うことの困惑と重圧。彼には障害を持った子供がいて、父=神主のようなスパルタをなしえないとき、父である「私」はいかに父であるべきか。そのような問いが生まれる。憂鬱になり、沈滞して、引きこもりがちな父である「私」がいかに自立するか。そして子供にどのような未来を渡すべきか。そのような問いと実践がこれからのちの10年間の主題となる。「新しい人よ眼ざめよ」が典型。
・引きこもりがちな語り手「私」を引きづり回し、困難といっしょに活性化された生活をもたらすものとしての「兄」や「弟」。騒々しい荒くれたトリックスターは近親からは姿をけし(語り手の視界にようやく入るくらいの遠くにはいる、でも家族に危害を加えるかもしれないという懸念が立つので語り手は関係しないようになる)、おおらかさと知性でもって批判する人格者として「兄」が現れてくる。「兄」は「私」を引きづり回しはしないようになり(しかし道化た馬鹿げたアクションをとるのだが)、知的な批判者として、老いを先に経験してこれからの生活の構想するよう促すメンターとして、「私」の生活と生涯と作品に意見するようになる。「懐かしい時への手紙」「キルプの軍団」が典型。


2016/01/11 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-5