2016/01/15 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-1
2016/01/14 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-2
2016/01/13 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-3
2016/01/12 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-4
村=国家=小宇宙は、この小説を読むことで、詳細な地図を描けるだろう。奥深い山の狭まった入口である「頸」をはいると、少し開けた「谷間」があり、そのうえには「在」と呼ばれる集落がある。山から湧き出た泉の水は小川となり、頸をへて下流に流れていく。谷間と在の間には巨大な作業場があり、20世紀の初めころに建てられた大倉庫がある。周囲は奥深い峻険な山に囲まれていて、在を通って山に入っていく。人の入ることのできる森とそれ以上行くと壊す人たちの領分になる山に分けられ、それは巨石を敷いた死人の道が目印になる。成人だけが森から山にはいることができ、ときに商人は山越えをしてこの村を訪れることもあるだろう。ざっくりとはこのような場所。何かに似ていると思うのは、なるほど荒俣宏「風水先生」集英社文庫にある風水の理想的な場所そのもの。この国の古い町は、ときに風水の理想に即した街をつくることがある。自分の行ったところでは福岡県の太宰府天満宮がまさにそのような場所。その土地を圧縮し、周囲の山を険しくすると、村=国家=小宇宙になるだろう。
森と山には鞘と呼ぶ泉があって、村人や「僕」は女性性器に似ているという。それはそっくりそのまま村=国家=小宇宙の地図からも想起できるイメージだ。頸を地図の下に置いたときに、谷間や在の紡錘形やその周囲の深い森はそれぞれ妥当する人体構造の名称を持つだろう。なにしろ、村の中心にある大倉庫。普段は空っぽであるが、収穫や祭りの時には人々と生産物が集積され、一時的に保管されたのちに空っぽになるというのもね。出産のイメージそのもの。
そのような風水はこの土地に豊饒さをもたらすものである(伝承によると、壊す人らが入植する前に異星からやってきたフシギが住み着いていたというから年季が違う)。豊饒さは五十日戦争までは保たれたといえるか。可能にしたのは、土地の特質を生かした生産様式にあり、国家に編入されたのちは一つの戸籍に二人の人物をおしこめるという二重戸籍のからくり。納税と徴兵を半分にするというアイデア(太閤検地以来のこの国の戸籍制度をよくもまあ免れたものだと感心する)。国家との直接対峙に敗れたのちに、村=国家=小宇宙は急速に荒れる。戦後は人口が流出し、1960年ころを最後に新生児が生まれなくなる。「僕」が手紙を書いたとき、廃村同様となっている。「僕」の一族が長じるあたり、いずれもが悲惨でしかし滑稽で波乱万丈の生涯を終えたとき、どの兄弟も子供を持たなかったのと軌を一にしている。そして村=国家=小宇宙の神話と歴史を正確に伝承する最後の人である父=神主の死とも軌を一にしている。
国家に抗する社会はこの国にあった。しかし、そのような社会は近代の民族国家に強制的に暴力的に編入され、国家の支配官が派遣されることによって死に絶える。それは執筆当時であれば、アイヌや沖縄やマタギに起きたことだし、三里塚や公害被害地で日々推進されていることであったのだろう。注意しないといけないのは、国家に抗する社会としての村=国家=小宇宙は差別の構造をもっていた。谷間>在>余所者>被差別者というヒエラルキーが厳然としてあり、住む土地から祭儀のかかわり、資産の再配分まで露骨に差別されていたのだ。余所者としての「僕」の一族が谷間の最も低い、大雨のごとに水没する家に住まされていたのがその典型。「僕」の一族は村人からいじめにあっている。差別の解消を村人が自身によって行いえない以上、この村=国家=小宇宙は未来の共同体のロールモデルにはなりえない。
重要なのは、国家に抗する社会の死滅は社会の神話や歴史を伝承することばが絶えたときである。異星からやってきた森のフシギは森の奥に彷徨いこんだものをとらえたとき、人のことばをきくと解放したという。ことばこそが人を社会的な存在につないでいるのだという認識。それが死に絶えようとしているとき、残されたものは最後の神話と歴史を変形して語る「僕」が森で見たヴィジョンのみ(神話と歴史は古文書の漢文か書き下し分でかかれるか土地のことばの伝承で伝えられたもので、「僕」のような標準語で書かれたものではありえない。「同時代ゲーム」は神話と歴史を正しく伝承するものではない。都会や余所者のための啓蒙と宣伝用のもの)。妹が犬ほどの大きさに壊す人を再生したというが、妹が合うのを拒んでいる以上確かめようがない。
そんな具合に一族も村=国家=小宇宙も死滅しようとしている。そのあとの作家の仕事は、ふたたび村=国家=小宇宙というトポスに再生の象徴を見出そうとすることだった。作家はさまざまなイメージを試してみる。雨の木、河馬、湖などなど。あいにくそれらは再生の象徴にはふさわしくなく、15年を経てようやく「燃え上がる緑の木」になって結実する。まあ、でもこの小説では壊す人が体操に使ったドロノキとして頸に長年生えていたものであったのだろうが。長い探求の旅の後、出発点に求めているものがあったというのはよくあること。
加えて、伝承と再生の担い手が交代する。父=神主のような強面で人付き合いの悪い人はいなくなり、彼に追放された母や妹などの女性が担当する。彼女らは書き言葉をよくするものではないが、喋り、笑う(この小説では妹の「アハハアハハ」という哄笑がなんどもこだまする)。再び神話や歴史は口承伝承に戻ることになり、のちには脳に障害のある子供に特別教育がなされたりする。なによりも女性は自身の胎を使って人を産むことができる。これこそが再生そのもの。ということになり、ささぐれてぶつぶつつぶやくばかりの男から、闊達で快活な女性たちが村と人を生き生きとさせるようになる。
それもまた、村=国家=小宇宙の形状が風水の理想形であり、女性性器に似ているということで、女性の豊饒さがこの土地で最も発揮されるというわけなのだろう。のちの「いかに木を殺すか」という短編集に集められた「もうひとり和泉式部が生まれた日」「その山羊を野に」「いかに木を殺すか」という中短編は、女性を主人公にした「同時代ゲーム」の神話と歴史の別バリエーションを語っている。それらの短編に登場する女性たちの見事なこと。
(追記: 初出の新潮社「純文学書下ろし特別作品」版の箱付ハードカバーでは、装丁の司修による「村=国家=小宇宙」と登場人物を描いたコラージュが載っていた。どうやら司修画集『壊す人からの指令』小沢書店(1980年刊)にもあるらしい。どちらも入手困難になっているかもしれない。)