odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

吉田秀和「ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿」(中公文庫) 1967-68年にかけてベルリンに滞在していたときの記録。吉田が愛好する芸術を支援する階層がいなくなり、芸術も産業に代わりつつある。

 1967-68年にかけてベルリンに滞在していたときの記録。現地に住み、プラハやウィーン、ザルツブルグにもいく。当時のベルリンは壁に囲まれていて、町をでるには飛行機に乗るしかない。その手続きを含めて、50代前半の著者は精力的によくうごく。それにこの時期、ベルリンにはカラヤンベームバックハウスという長老がいて、アバドやアリゲリッチなどの30代の俊英が来るという具合に、クラシック音楽好きからすると、指をくわえてうらやましがるしかないような時代だった(まあ、もちろん箸にも棒にもひっからない有象無象もいて選択は難しかったろうけど)。
 あと、著者は1954年にアメリカ―ヨーロッパに長期滞在し(「音楽紀行」)、1976年にもバイロイトを中心に滞在し(「音楽の旅・絵の旅」)、1980年代にニューヨークに長期滞在し(「二度目のニューヨーク」)、そのたびごとに詳細な記録を残している。この本はそういう本の一冊。どの機会でも、主題は「芸術」、とりわけ西洋音楽に関してで、ときに絵画・彫刻・演劇が取り上げられる。そういう興味の持ち方は個人に依るので、よしあしはいわない。たとえばこの人は1968年の5月にプラハに行き、「プラハの春」を体験している(ベルリンに戻った翌々日にソ連軍の侵攻があった)。そのときのドキュメンタリーもあるが、彼に話題を持ってくるのは音楽の同業者か知識人、インテリであって、どうも路上の雰囲気は匂ってこない。おなじく共産党政権下のモスクワにも行き、ソ連の女性を描写する。チェホフのロシアが続いていることを書いているが、著者は彼女らの話を聞くことはない。自分の観察と考察にこだわる。そこは小田実や開高健の旅のレポートとずいぶん違う。

 ここには音楽の理解についてずいぶんはっきりしたことを書いていて、いくつか引用すると

「ある音楽をきく、ある音楽作品がわかるというのは、私たちが、それに従って、音楽の走り、歩むその論理的形成を追う行為にほかならない(中略)私たちに、ある作品が完全にわかったとしたら、それは、ききおえてから、もう一度その曲を―――少なくとも頭の中で―――組み立てなおしてみることができるはずである。音たちの進行の脈略を見失ってしまう、音たちの描く軌道の中である段落と段落の間に生まれた均衡、あるいは対立、あるいは衝突、あるいは重なりあい、そういうものがたどれなくなってしまったとき、私たちは『この曲はわからない』『途中でわからなくなった』という。その時は、私たちは、音楽の外側に押しもどされ、音が私たちのかたわらを流れるのを、『手をつかねて眺めている』ほか仕方がなくなる(P10-11)」

「芸術は精神の集中と切りはなせないのだし、集中のあるところには、孤独が影のように生まれてくる。これは避けがたいことだ(P273)」

 とりわけ最初の引用はどうにも高いものを聴衆、というか芸術愛好家に要求しているようだ。それこそ、楽譜が読めて、なにか楽器のひとつが演奏できて、楽理を学んで分析もできるくらいの知識と技術を経験をもたないと、この要求にこたえることはできない。というのも、芸術、とりわけ西洋の芸術を考えるとき、教会や宮殿で演奏され、のちには市民向けの劇場で上演され、家庭で楽しむものが前提になっている。西洋の近代と切りはなせないところで生まれた天才や凡才らの仕事を振り返り、西洋の近代を理解しようとするものだ。
 しかし、20世紀の半ばにはこのような芸術は内部から崩されている。というのも、かつてそのような芸術を愛好し支援してきた階層はいなくなっているし、ラジオやレコード以来のテクノロジーは芸術を産業化しているし、西洋には他の世界の文化が流入して変化しているし。途中の章でプルースト失われた時を求めて」の話から芸術の「美術館化」をなげく。それまで芸術はふさわしい家に飾られ、演奏され、それを理解する観客・聴衆が選ばれて鑑賞するものだった。20世紀の半ばにはそういう芸術を飾る「家」はない(なにしろ相続税が高いし、100年も同じ事業を続けると左前になるし)。それで美術館に収蔵するようになったが、もはや絵画や彫刻をコンセプトにあわせてレイアウトすることはないし、関連のない時代や場所の芸術が隣り合わせにおかれるし。かつての芸術の品性とか秩序はもはやなくなっている。そういう滅びとか変化が目に見えるようになっているのも1967-68年という時代。ベルリンにもヒッピー文化が入ってきたし、新左翼の運動があっただろうけど、著者はほぼスルー。20世紀の文化には、路上から生まれて、政治をいやおうなく意識するものがある。ジャズやレゲエ、パンク、ラップなどは社会批判があり、差別に抗する運動にもなる。そこらへんは著者には見えてこない。まあ、50代半ばの初老のおじさんに、若者の流行の音楽に興味を持てというのは酷だけど。現在の自分もKポップやパンクやテクノを聞くのは辛い。

「完全にできるできないは別として、はじめて新しいものに接した時、まずそういう心掛け(虚心になってふれよう)になろうというのが私たちの習性だが、ヨーロッパの人たちは、逆にこれまでの自分の考え、経験したものの延長、深化、拡大、充実の線上出来事としてとらえようとする。(中略)だから、わからないとなったら、これはもう全くがんこにわからない。何も感情的にそうなるのではなくて、≪全人的≫にがんこたらざるを得ないという意味でがんこなのである(P234)」

 というのも面白い指摘。とはいえ、これが通じるのは著者がつきあうような20世紀初めに生まれた人たちでのことではないかな。戦後生まれは、ジャズやロックにすぐにとびついたし、思想界でもこのころから西洋中心主義の批判が始まっていた。最後の章で、ケージやフェルドマンらの瞑想や偶然性の音楽、出入り自由なフリーコンサートの紹介があって、若い人たちがこだわりなく聞いていたというレポートがある。著者は変化をみていても、自分のよってたつ「芸術」を放棄したり、懐疑したりはしない。まあそんな具合に、著者の芸術観が時代ときしんできたのを見ることになった。
 あとは、若い演奏家や大家の演奏会評があって、これはみごとなでき。いくつかの章はそれだけ取り出して他の本に収録されたものがある。でも、この一連のエッセイの中で読むほうがおさまりがよい。

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