著者は1906年生まれの音楽学者、評論家。いくつかの楽譜の校訂や解説で彼の名前をみることがある。この本は1950年初版で、1976年に改訂された。
さて音楽の美に入門するための本であるが、音楽の美はどうもはっきりしない。とりあえず著者のいうことを聞き取れば、音楽は人間に美を認識させる力をもっている。まずは、感覚で認識するものであるが、この状態だと美の一般だけが把握できるだけ。それをたぶん自覚的に音楽に参与する(作曲、演奏、鑑賞いずれでも可)ことで芸術美を把握できる。「芸術」が規定されていないので、どうもわかりにくいが、著者によると「意味」を生成するのが芸術美であるらしい。たぶんショウペンハウエル「意志と表象の世界」でいうような「意味」なのだろう、って自分はショウペンハウエルの議論はよく知らないのだが。この「意志」は多義的で、言語で表現できないが、関与するものの人生に影響し、イデアとか人生の全体をまとめて人間に放ってくるものらしい。そのような美や意味を把握することで、人間の自己成長や自由精神の謳歌などを遂げる。一方で、このような芸術美を人間が把握できるようになるためには個人的な努力では限界があるので、音楽も人間も社会変革の意思も持たなければならない、とされる。
書かれた時代1950年を思い起こせば、今日的ではないこのような議論の背景も見えてくるのかな。社会には矛盾があって、それが集中する階級が自己変革と社会変革をなしてきたように(ここらはヘーゲル的な議論)、芸術もまた人間解放、抑圧からの自由を表現してきていて、独自に音楽の進化・発展してきたというのだ。
そのあとは、西洋古典音楽の発展の歴史を振り返る。音楽の構成要素は音とリズムと旋律。これが統合されて和声を生み、ポリフォニーの音楽に進化してきた。グレゴリオ聖歌からバッハまでの1000年がそれにかかった時間。バッハは対位法とポリフォニーの大家、ベートーヴェンが市民階級の自由と発展を総合した芸術家、シューベルトは小市民階級の感情の音楽化に成功。ここまでは音楽は順当に成長してきたが、ロマン派になって自己意識が肥大したのと社会階級矛盾に無自覚であったので、ワーグナーのように統合化に失敗、みたいな歴史が描かれる。もう一つの歴史は、音楽が踊りや歌、儀式の伴奏などの機会に寄り添っていたのが、交響曲のような絶対音楽に進化していく。あるいは社会の全体把握をする総合芸術にまとめられるという見方。
なるほど、著者にとっては音楽美は西洋古典音楽にあるとみえる。この国の音楽に触れたところがあるが、この国の音楽は多声性がないので正当に発展していないとばっさり。あと、この論旨からすると社会階級や自己意識などをとりこんでいないし、ソナタ他のような形式がないのも減点対象ということになるのかな。彼の論旨を支えるのは、文中にでてくるロマン・ロラン(たぶん「ベートーヴェンの生涯」)とシュヴァイツァー(たぶん「バッハ研究」)。言及はされていないが、アドルノの音楽の見方にも似ているような気がする(「音楽社会学序説」や「不協和音」あたり)。進化や発展が無条件でよいこととされていて、音楽を含む芸術が進化すると考えられていた時代の産物。そういうもののみかただと、今度は現代音楽も評価できなくなるよな(20世紀の音楽で登場するのはリヒャルト・シュトラウスくらいで、十二音音楽やバルトークなんかは無視)。それに音楽の多様性をみないから、周辺の音楽やポップ・ミュージックも無視しないといけない。まあ、教養を蓄積して人格を陶冶するというのが主題であれば、それは一貫性はあるだろう。しかし、まるで今日的ではないし、ドグマティックな独善性をもっているので、読まなくてよい。そういえば山根の「孤独の対話」(ベートーヴェンの手稿を読んで彼を描こうというもの)を読もうとして、その堅苦しくイデオロギッシュな文体に辟易して途中で放棄した。どうにも著者の考えと文体は自分にはあわない。
西洋古典音楽の歴史を把握するなら、吉田秀和「LP300選」がよい。そいうえば、山根銀二と吉田秀和はそれほど生年がちがわないのに(吉田は1913年生)、なんでこんなに違ってしまったのかな。