odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

大江健三郎「小説の方法」(岩波書店)

 1978年初出、岩波現代選書の第1巻。
 40歳になって振り返ると、小説をいわば本能的に書いてきて、それなりの成功を収めてきたけど、方法が貧しくなり、小説の力が薄れたように思ったのではないか。そこで、どのように小説を書くかを自覚的に明らかにしなければならない。そのときに既存の文学批評や理論は助けにならず、文化人類学言語学などの異分野の知を探索することになった。あわせて、新しい文学の可能性をアメリカやヨーロッパではない別の地域に見出さなければならない。そのような問題意識を持っていたのではないか、と推測する。

文学表現の言葉と「異化」 ・・・ 「小説は人間をその全体にわたって活性化させるための、言葉による仕掛け(P9)」。そのとき、小説を人生訓的感懐やイデオロギー的感懐で批評するのは貧しい(ギクッ)。一方、これまで書かれた小説の方法論では異領域の知を勝手に移植していい加減なものになっていた(「知の欺瞞」みたいなことですかねえ)。作家はそうではない小説の方法を構想したいとする。手がかりはロシア・フォルマニズムの「異化」という概念。これは単一の意味を持ち想像力を喚起しない日常・実用のことばを多義的・多様性をもち想像力を喚起する詩的言語に変える方法のひとつ。

構想のさまざまなレヴェル ・・・ 作家は小説の全体を考えると同時に、言葉・文章・文節・イメージなどの細部にこだわる。そのときに、全体と細部を結びつける「構想」を獲得するために工夫する。ムジール「徳性のない男」では「道化師」イメージが細部と全体をつなぐ核として現れる。読者もまた、そのようなさまざまなレヴェルにおいて作家の構想の痕跡を読み取り、そこから作家が同時代の社会や世界を把握し運動しているかと読み取りうる。

書き手にとっての文体 ・・・ 小説の全体を具現化していくうえで、作家は文体を模索し、推敲する。そして文章A^1からA^nまでの多彩な工夫のすえに、小説にふさわしい文体が発見される(執筆はいわば文体探しといえるかもしれない)。そのような文体は小説に統一性(ユニテ)をもたらし、言葉の「異化」を実現する。例文は狭山事件の脅迫状。1978年当時は最高裁判決の出る前だった。野間宏「狭山裁判」岩波新書)も同時期に出版されている。

活性化される想像力 ・・・ 小説は読者に静的な・ありふれたイメージ(むしろシーンというべきか)を与えるのではない。想像力は、動的で小説の構造を離れて独自の広がりをもち読者の心的な運動を喚起する力を持つ。そのような例として、バルザック「浮かれ女盛衰記」、ゴンブロヴィッチ「フェルディドゥルケ」、ル・クレジオ「調書」。想像力の説明はガシュラールにもとづく。このとき、読者の世界や宇宙的な認識やつながりを喚起するものだといい、のちに作家が見出したブレイクの「ヴィジョン」につながる考えになるのだろう。

読み手とイメージの分節化 ・・・ 小説のイメージやキャラクターはそのままではのうっぺらぼうか、ありふれた特に興味をひかないものだ。そこで作家は、イメージを分節化する。たとえば、何かの特長を強調したり、矛盾する対立を持ち込んだり、意外なものと連想関係をもたせたり。小説のブロックでもこのような強調や対比、連想関係などを持ち込む。これがうまくいくと想像力の活性化をもたらす。読み手もこのような分節化されたイメージに想像力を発揮しなければならない。例はマン「ヴェニスに死す」(この小説の読み取りは見事。自分のはなんて貧しい読みだったのかと赤面してしまう)。

個と全体、トリックスター ・・・ 小説は、個の人間を描くことになるが、一方で彼/彼女のいる世界の経験の総体を認識・把握したいという欲望も満たさなければならない。そのための方法には、複数の視点を導入して認識や思想の多様性や矛盾を見出すこと。例はトルストイ戦争と平和」。他には、トリックスターを導入すること。例は大岡昌平「野火」。

パロディとその展開 ・・・ 小説の方法や仕組みは繰り返されるうちに機械化・自動化されて生き生きした活性化の力を失う。それを克服する方法に、パロディがある。先行する方法や仕組みを換骨奪胎し、批評性をもたらし、価値を転倒させ、正気と狂気がいれかわり、笑うものが笑われるものになり、もっとも下にいるものが人間の威厳をしめすような方法。例は「ドン・キホーテ」「阿保物語」「トリストラム・シャンディ」。あと、日常に異質を持ち込むキャラクターとしてトリックスター、幼児、道化などの存在がある。

周縁へ、周縁から ・・・ 小説に限らず文化は中心志向性、単一化の運動を持つので、当初の批評性や「異化」の力を失ってしまう。それが認識や思考の自動化や思い込みを生んでしまう。そのような立場を「異化」する方法として、周縁の人間、世界観、思考方法などを対立的に取り込むことがある。例は日本に対する韓国や沖縄、アメリカに対するメキシコ、など。このあとこの国では中南米文学がさかんに紹介されたのだった。

グロテスク・リアリズムのイメージ・システム ・・・ 糞尿譚に見られるグロテスク・リアリズムは、両義的で、運動的で、民衆やフォークロワの笑いを誘発する。それは分割できない生きた総和として現れ、宇宙的・社会的・肉体的である。死と再生のイメージをもっているのも重要。

方法をしての小説 ・・・ 支配者層からはつねにお仕着せの言葉や表現が押し付けられている。それは人間の認識作用を自動化し、批判の意識を失わせるようにはたらく。なので、政策や経済のリスクや危険を押し付けられるのに抗するために、批判的で活性化した言葉とイメージを持つことが必要。そのとき、優れた文学は有効。文学のよいのは未来のイメージを構想し、そこから現在の問題を摘出したり、未来への道筋を明らかにすることができるから。というわけで、みんなよい小説をこのように読んでね、作家もよい小説を書くから。


 このあと「同時代ゲーム(1979年)」がでたときに、「小説の方法」に示されたやり方の実践であったという評があったと記憶する(いや、「方法を読む」講談社の前書きに作家本人が書いていた)。なるほど、周縁(四国の山奥とメキシコ)、多様な文体(歴史や神話を語る三人称、妹への手紙の二人称、個人的体験を語る一人称という具合)、グロテスク・イメージ、トリックスターや幼児神、パロディ、複数の視点によるイメージの重層化などは、かなり生硬なしかたで(あるいはわかりやすく)小説に使われていた。
 このように文学の理論家と実作と並行しながら書く、方法に自覚的な作家はこの国では珍しい。エンターテイメント小説では、もっとプラグマティックな方法(ストーリーの作り方、キャラクターの造形、盛り上げ方、描写の仕方など)を教えるのはたくさんある。それは便利なのだろうが、実作を行わない読者からすると、エンターテイメントの小説を書く方法は読む側を自覚的にはしない。最初の10行で読者をひきつけるショッキングなシーンをまず書け、状況説明とキャラクター紹介は後になってからでOKというような「方法」は読み手からするとなんらの創造的な読み取りにつながらないのだ。
 さて、この本のキーワードは「異化」。作中で紹介されているようにロシア・フォルマニストの概念。いい加減に説明すると、人間の意識や言語活動は自動化・均一化に向かいやすく、それにともなうように生活も自動化・均質化するし、考えやモノの見方もおしきせに流れていく。そうなると一見、幸福そうなくらしにはなっても、さまざまなリスクや危険を支配者層から押し付けられていて(および他者を抑圧している加害者であることをみえないようにしていて)、社会や世界の格差や不幸を解決するようにならない。そこで、意識や言語活動を生き生きとさせ、社会や世界の見方を活性化し、あるべき姿に社会を変革する動きを人間に取り戻すことが必要。そのときに言葉を「異化」して、自動化・均一化した言葉にショックをあたえ、驚きや発見をもたらそうとする。「異化」のやりかたはいろいろあって、重要なものは上のサマリで紹介した。これらを使った先人の小説を参照し、実作に反映するのを作家たちに期待する、というわけかな。
 これは作家が勉強や他の学者の示唆で発見したというより、過去無自覚に使ってきた仕掛けの方法的根拠を再発見・再確認したとなるのだろう。この本では実作は「芽むしり仔撃ち」だけが引用されている。そこには、幼児、日常への異質なものの導入、トリックスター、周縁、祝祭と暴力などこの本で強調される「方法」がたくさんある。20代前半で書いた時には方法的意識のなかったのが、根拠を与えられたというわけだ。その自信が大作「同時代ゲーム」になったわけだね。ここは功罪半ばしていると思う。「芽むしり仔撃ち」の方法を継続した「同時代ゲーム」や「キルプの軍団」は成功作だと思うけど、「宙返り」はセルフパロディで寒々しかった。四国の山奥というトポスやフォークロアを引き継がない想像上の惑星を舞台にした「治療塔」「治療塔惑星」は再生のイメージがトンデモに酷似して痛々しかった。方法で書くことがかならずしも作品の成功をもたらすわけではないというのは、文学の科学とは異なるところ(科学は方法をなぞると、別人でも同じ結果を再現できる)。
 80年代にもさかんに評論がかかれるのだが、そのときには、「小説の方法」で取り上げた手法による読解の例示が多い。そうでないときは、最終章の「方法をしての小説」で駆け足で記述したところ(小説を読んで、宇宙的・世界的なイメージの獲得から社会変革への志へ)をさらに理論化、深化させる試みであった。後者が成功しているかというと、心もとない。自分は納得いかなかったり、反発したくなることが多々あった。
 あとは、ここに書かれた方法は読み手が小説を読解するときの手段に使える。若い時に読んだ小説を読み直すときの手段や方法にすると、重層的なよみかたができるので、おすすめ。
 40代前半の著作で、ややこしい複雑な文体だから、慣れている人でないと難しいかもしれない。80年代の講演や評論(「核の大火と「人間」の声」文学再入門」「新しい文学のために」あたり)を読んでから、こちらを読むのがよいと思う(といいながら、どれもこれも品切れみたい)。