odd_hatchの読書ノート

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小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(現代教養文庫) 黒死館殺人事件1 小栗虫太郎の畢生の大作。多くの人が混乱し、困惑した作品。その理由はすさまじいまでの圧縮にある。

 1934年の雑誌「新青年」に連載された小栗虫太郎の畢生の大作。多くの人が混乱し、困惑した作品。これで4度目の読み直し。章ごとにメモを取って、細部を忘れないようにして読むことにした。これが正しい読み方かどうかは置いておくとして、行ってみようかGO。

 まず、登場人物を把握しておこう。ほかにも警官、私服、使用人も登場するが、顔と名を持たないので不要。

序篇 降矢木一族釈義 ・・・ ボスフォラス(トルコ・イスタンブールにある海峡のこと)以東には唯一というケルトルネサンス様式(ルネサンス建築はイタリアに限定されるというのが一般的な見解で、ケルト地方まで波及したものではない)の洋館「降矢木」邸、通称「黒死館」が紹介される。おそろしく圧縮された中にたくさんの情報が書かれていて、
・降矢木家は、16世紀イタリアのカテリナ・ド・メディチの末裔ビアンカ・カペルロと天正遣欧少年使節千々石ミゲルが密通してできた子供が始祖であるとされる。嬰児が天正遣欧使節とともに本邦に送られて、降矢木を名乗る。千々石ミゲル松田毅一天正遣欧使節」(講談社学術文庫)でみると、そういう可能性はないのだけどね。
・前主・算哲はドイツ留学中にウイチグス呪法典ほかの魔術書、呪法書を収集。呪術を実践できるまでの修行を実行。
・犯罪素因遺伝説を唱え1年間にわたり八木沢博士と論争中、突然沈黙。
ウェールズ人ディグスビイ設計で「黒死館」を作ることにしたが、途中ですべて破棄し、自分の設計で再建築。算哲は一度も黒死館に住まなかったが、そこでは3人の不審死が起きている。
・事件の10か月前に算哲は自殺している。これにより当主不在になったので、姪の津多子を当主にする。旗太郎は妾・岩間富枝の息子。
・黒死館には門外不出の弦楽四重奏団(イタリア、東欧、ロシア生まれの4人)がいて、40年間、黒死館から外出したことがない。
・最初の事件は第一提琴奏者のグレーネ・ダンネベルク夫人の死である。
以上の情報が事件の謎を解く鍵であるかはわからない。

第一篇 死体と二つの扉を繞って
栄光の奇蹟 ・・・  ・・・ 1月28日。黒死館に到着。外観と内装の説明。重要なのは、十二宮のステンドグラス、おびただしい西洋甲冑。「腑分図」「ペスト死」などの陰惨な絵画の複製。階段踊り場の二つの甲冑(手にする旗が入れ替えられていて、弥撒と英町が虐殺と読める)。ユダヤ人の風貌をもつダンネベルク夫人は青酸による毒殺だが、死体から光が輝いて全身を包み、こめかみにはフィレンチェ市の紋章と同じ傷がついている。

テレーズ吾を殺せり ・・・ ダンネベルク夫人の毒殺の様子。前日の夜9時に夜食で自室に持ち込んだオレンジを食べたらしい。そこに青酸が仕込んであった。夫人は梨が好きで、皿には梨もあった。自筆で人形のテレーズが犯人であるとメモ。人形室を捜査しようとすると鍵がない。なかには人身大の人形があり、部屋の鍵は内部から締められていた(小栗は「メトロポリス」「プラハの大学生」「巨人ゴーレム」などの自動人形やロボットなどが登場する映画を見たのかなあ)。鍵穴に水を注ぐと中の毛髪が収縮して扉を開ける仕掛けがあるのを発見する。法水は召使は喧噪のために聞こえないはずの音響を聞いていると謎めかす。

屍光故なくしては ・・・ 図書係・久我鎮子(50歳くらい)の訊問。前日に神意審問なる魔術をほかの居住者と一緒に実行。絞死体の手のミイラに絞死体の脂で作った蝋燭を点し、光がさした人が次に殺されるというもの。光はダンネベルク夫人を指し、夫人は「算哲」と叫んで卒倒。その部屋は算哲の自殺した部屋(上と矛盾しているが気にしない、気にしない)。久我が出したのは算哲の遺書のようなもので、居住者6人がそれぞれ異なった方法で殺されるべしと図解入りで書いてある。テレーズが死者を黄泉路に送る船(エジプト神話から)であるとされる。

第二篇 ファウストの呪文
Undinus sich winden (水精よ蜿(うね)くれ) ・・・ 引き続き久我の訊問。ここで久我は夫人の部屋で見つけたメモを提示。書かれていたのは章のタイトルと同じドイツ語。これはゲーテファウスト」のものであるが、久我は知らないといいはる。アインシュタイン、ド・ジッター、ヒルベルトなどの数学者・物理学者の名前。死体は消滅しても宇宙を一周した光が過去の映像を映すという法水の説。若い神谷伸子もハープを弾くという情報。久我が退場した後、車椅子にのった執事・田郷真斉登場。彼は史学者であり、下半身は不随で電動車椅子に乗っている。

鐘鳴器(カリルロン)の讃詠歌(アンセム)で…… ・・・ 算哲の死去した部屋で、法水は事件は内惑星軌道の原理で起きたと説明する。カーペットのたるみを電動車椅子の動力でいっきにうごかして、算哲のバランスを崩して、云々。もちろんはったりである。結局、真斉は算哲死去に関する新情報(テレーズが覆いかぶさっていた)ことを告白する。当日はディグスビイの命日で神秘四重奏団の演奏が聞こえる。続けてカリルロンでオルランド・ディ・ラッススのアンセムが演奏される。最後の音が鳴らなかったことに気付いて、易介が死んでいると法水はつぶやく。

易介は挾まれて殺さるべし ・・・ 具足室に向かうと一つの具足に易介が入って死んでいるのが発見される。易介はこびとで傴僂の佝僂病者。首を切られているが、それは死後につけられたもの。ここで、法水の易介殺害の仮説が語られるが、ある召使の証言で瓦解。鐘楼に上ると、カリルロンを演奏していた神谷伸子が鎧通しをもち、のけぞって失神している。扉には「風神(ジルフス)よ、消え失せよ」と書いてあり、法水、支倉、熊城は慄然とする。

第三篇 黒死館精神病理学
風精……異名は? ・・・ 伸子の失神した体形と椅子のねじの向きが一致しないのはおかしい(椅子のねじは全部回されていてそれは右まわしなのに、伸子の回転方向は左まわし)。カリルロンの倍音の謎をとくために、法水が持ち出したのは、西洋中世の錬金術師の詩篇に、洋楽器の共鳴現象に、幽霊の楽器演奏など。易介死亡時のアリバイ調べの結果、伸子を除いた全員がそれぞれを見ているかいっしょにいたことがわかる。

死霊集会の所在 ・・・ 「易介は挾まれて殺さるべし」の章で、私服の一人が持ってきた見取図の中に写真乾板の破片を発見(1930年代にはフィルムが一般的に使われているので、乾板は相当に古い)。図書室にいき神秘四重奏団の演奏していた鎮魂曲の作曲者を調べるとなんとディグスビイ。所有する医学書、犯罪書、神秘思想書、魔術書などの羅列。何冊かの本を借り出す(タイトルに注目。「真相」に肉薄する内容)。裏庭に出ると複数の足跡が残っている。算哲の埋葬されたカタファルコ(棺龕のルビだが、いずれも小栗以外の使用例が見当たらない)を見に行く。キリスト教異端のシンボルのたくさんついた不可思議な形。雪が降り、次第に強くなる(ここの光景は著者之序によると、モーツァルトの葬式を模しているとのこと)。法水は初期キリスト教サンスクリットの薀蓄を語る。

莫迦ミュンスターベルヒ! ・・・ 執事・田郷を尋問。神秘四重奏団が集められ館から出ない理由と算哲の遺言を説明する。すなわち帰化後降矢木家の養子になり、財産相続の権利を得ている。ここでポープシェイクスピアハムレット)、ミルトンなどの引用合戦。旗太郎が呼ばれる。ストラビンスキーの「ペトルーシュカ
(命を吹き込まれた人形が人を恋して、ライバルに惨殺される話。まあ、テレーズや自分自身のメタファーだな。1923年にグーセンスが初録音。1928年に作曲者が録音、これ、後者をLPでもってる、カットと別バージョンフィナーレで30分に満たない)
(参考)ストラヴィンスキーペトルーシュカ」の戦前自作自演のレコード(1980年代の復刻)。

を口笛で吹くわ、父をメフィストフェレスとヴォータンに例えるわと17歳にしては早熟。家の陰鬱、孤独を訴え、算哲の遺志に逆らい難いことを述べる。遺言は他言できず、父が生きている可能性を示唆した。神秘四重奏団の3人、クリヴォフ、セレナ、レヴェズが来て、テレーズを焼くように法水に要請する。クリヴォフ夫人が前夜に何者かが寝室に侵入したと証言し、その姿かたちが旗太郎に似ていた。ミュンスターベルヒは19世紀末から20世紀初頭にかけての犯罪学者。乱歩の作品にも名前が見える。プロジェクト・グーテンベルクでも復刻されていないみたい。
ヒューゴー・ミュンスターバーグ - Wikipedia


2014/05/21 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(ハヤカワポケットミステリ) 黒死館殺人事件2
2014/05/20 小栗虫太郎「日本探偵小説全集 6」(創元推理文庫) 黒死館殺人事件3
2014/05/19 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(河出文庫) 黒死館殺人事件4 に続く。



 最初のキーワードは圧縮。乱歩の序にあるように、豊富な素材が惜しげもなく投入されている。のと同時に、記述も圧縮。たいていの作家であれば、400字から800字くらいかけて詳述することがらをわずか一行で済ませてしまう。
自分の知っているところに即して言えば、「ラッサスのアンセム」という一句があって、これにはまずオルランド・ディ・ラッスス(ラッソー)という16世紀イタリアの作曲家がいて、彼の作品がおもにミサにマドリガルであり、いっぽうアンセムという形式の宗教曲がイギリス正教会にあり、たとえばパーセル、ギボンズ、バードというイギリス人作曲家に作品があるというのが最低限の知識になる。そこを書かずにいきなり「ラッサスのアンセム」とあるので、読者は面食らう。まあ、アンセムという形式はイギリスのものなので、ラッススがアンセムを書いたとは思われない。
 それらしいのは「ダヴィデ懺悔詩篇曲集」。本文にも「ダビデ詩篇第九十一篇」とあるのだが、あいにくラッススの「ダヴィデ懺悔詩篇曲集」は詩篇91篇を使っていない。取り上げているのは6、31(32)、37(38)、50(51)、101(102),129(30)、そして142(143)篇の7曲。

 ラッススのミサ曲ではミサ「あなたがた娘のなかで」Missa Entre vous fillesが好き。
www.youtube.com

 レクイエムを弦楽四重奏のために作曲するのはディグスビイの生存期間中はありえないが、この編成に編曲するのはあった。
モーツァルト:レクイエム(弦楽四重奏版) クイケン・カルテット
www.youtube.com

 カリルロンで検索しても小栗のこの作しか引っかからない。そうすると、カリヨン(カリロン:Carillon)で検索するとよい。メカニズムはだいたい小栗の記述のとおりみたい。CDを聞くとホモフォニーの編曲はあるが、アンセムのような多声音楽を演奏できないのではないかなあ。
 カリヨンの演奏風景は
Sarabande Haendel-Carillon Castelnaudary 35 cloches
www.youtube.com
"Memorial Chimes" for the War Memorial Carillon Loughborough
www.youtube.com
 カリヨンの構造がわかる動画。
Carillon 85th Anniversary - Mayo Clinic
www.youtube.com
das Erfurter Carillon
www.youtube.com
※ 後半で「チューブラー・ベルズ(エクソシストのテーマ)」を演奏


 それが中世神秘思想に異端思想、初期キリスト教に、中世ドイツの古文献に天正遣欧使節、19世紀の犯罪学に生理学に遺伝学、紋章学やら古代の時計に武具に甲冑にと、多種の薀蓄が注釈なしに書き連ねてあるとなると、これはもう読者の頭は痛くなる。まあ、今の目から見るといい加減というか間違いを自信をもって書いているところもあって、それもまた愛らしいとは思うのだが。あるいは作者の仕掛けた虚構が実在の書物や事物と混同されて、判別できなくなっていくような。
 ともあれ、圧縮が技法であり、一度書いたことは二度繰り返されることはなく、たとえば算哲と八木沢博士の論争など序章で書かれてから最終章まで一切触れられないという仕儀になる。なので、すくなくともここに書いたくらいのノートをとっておかないと言葉の迷宮にさまよいこんで、自分のいる場所がわからなくなる。
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