odd_hatchの読書ノート

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筒井康隆「全集2」(新潮社)-1965-66年の短編「堕地獄仏法」「マグロマル」

 1965年と1966年の短編。

堕地獄仏法 1965.08 ・・・ 戦後の好景気を背景に総花学会と恍瞑党が躍進。天皇法華経に帰依して、伊勢神宮他各地の神社が破壊。独裁体制に移行したが、衣食が足りているので国民は満足。「政治的な価値基準が宗教の聖邪基準とごっちゃ」になった社会。小説家はほぼ全員が転向、断筆を余儀なくされ、ただ一人のこった「おれ」は「月刊現代人」で小説を発表したいが、党員の襲撃を受ける。オーウェル1984年」の筒井版。オーウェルの「党」は党派観念の持ち主であるが、こちらの「党」=学会員ではそれ以前の「共同観念 」の持ち主のようで、「転向」がなさそう。笑顔で接するこちらの党員のほうが、オーウェルの党員よりも残虐かもしれない。なにしろ、知識人やエリートは彼らとコミュニケートできない。

ラッパを吹く弟 1965.08 ・・・ ショートショート

遊民の街 1965.09 ・・・ コンピュータの発達で事務とサービス業の無くなった時代。40年の教育を経ても、失職する。人生の余暇をどのようにすごすか。福永武彦「未来都市」ウィリアム・モリス「ユートピア便り」のような芸術家ユートピアに対する強烈なアンチテーゼ。

チューリップ・チューリップ 1965.10 ・・・ タイムマシンをつくったら欠陥があって、「おれ」が複製されてしまった。多元宇宙で唯我論は実現するか。

赤いライオン 1965.10 ・・・ 精神病医が夢の中で自分のアニマの見た夢を分析しようと試みる。自己言及のクラインの壺、自意識の迷宮。

トンネル現象 1965.12 ・・・ 下宿の押し入れと会社のロッカーがつながっていた。ハインライン「歪んだ家」の筒井版。家が無限の迷宮になるというのは作家の好きな悪夢のひとつ。

マグロマル 1966.02 ・・・ 32の種族が集まる星系会議で「マグロマル」問題の会議に出席するために、会議場に来たのだが。言葉はわかるのに、文章になるととたんに意味が通じなくなる「コミュニケーション」不全。作家による言語実験の始まり(のひとつ)。これがひっくりかえると「関節話法」になる。(マグロマルはインドネシア料理の名前らしい)

末世法華経 1966.02 ・・・ 日蓮が今日(1966年)の日本にテレポートしてきて、総花学会の集会に参加した。公明党の設立が1964年。宗教団体を母体にする政党設立のショックはたとえば真継伸彦「光る声」(新潮文庫)を参考に。

ベムたちの消えた夜 1966.03 ・・・ 火星に生物がいないことが分かった夜に、円盤にあった。警察に報告しようとすると、同じ体験をした少年少女が警官に怒られている。当時のSFの置かれた状態が投影されているのだろう。

会いたい 1966.03 ・・・ 死んだ恋人に会いたい男の前に現れるアニマ。「エディプスの恋人」の逆転版。ただし、男の身勝手さは差別的。21世紀には通用しない。

かゆみの限界 1967.03 ・・・ かゆみの限界に挑戦する男。「生きている脳」「問題外科」「蟹甲痒」「顔面崩壊」などの前駆。よんでるだけでかゆくなる。

カメロイド文部省 1966.04 ・・・ 小説のない惑星カメロイドから作家にならないかと誘われた。言葉の表出力がとても強いところ(例えば古代文学時代のこの国)に、装飾過剰な文章を披露するとこうなるのかな。

ハリウッド・ハリウッド 1966.04 ・・・ 不細工な高校生が部屋でいらだっていたら、映画の神様がやってきて、一つだけ願いをかなえるといった。

ケンタウロスの殺人 1966.04-05 ・・・ アルファ・ケンタウリの第2惑星。多くの異星人とアンドロイドが共存する社会。ある宝石商がホテルの部屋で強力な部屋で干からびていた。だれが殺し、ダイヤモンドを盗んだか。生物の属性、習慣、風俗の異なる異星人のいるところで理性的な探偵は可能か、と思うと、こういう趣向のミステリがあってもいいな。あるだろうけど知らない。

タック健在なりや 1966.05 ・・・ 10年に一度の大統領補佐官試験に残ったのは「わたし(ヤッシャ・ツッチーニは「カメロイド文部省」の主人公と同名)」とタックの二人。最終試験に挑む。

お玉熱演 1966.06 ・・・ 不細工な女の子がテレビタレントになりたいと願っていたら、テレビ局のディレクターが来た。参考「イチゴの日」@薬菜飯店

トラブル 1966.07 ・・・ 丸の内でエリートサラリーマンを嫌悪しているマスコミの男が異星人(純粋思念体)に乗っ取られ、たちまち星間戦争の前哨戦になる。解剖学用語を並べ立てた殺戮の描写は妙に静かで、躍動感にとぼしく、しかし残虐このうえないという言葉のマジック。肉体の即物性はこのあとの乱闘や死体の描写に受け継がれる。


 作家はマスコミの自立性を信頼していて、政府や圧力団体などの圧力(言論、思想、集会や結社の自由に対するさまざまな侵害行為)に対して批判的であると考えている。であればこそ、「堕地獄仏法」に典型的なように出版社や新聞社は自由の侵害に命を懸けて対抗する。とはいっても、「公共放送」をなのるマスコミは政府監視もできる力を持っていて、政治権力を裏からコントロールするのであるから、そこは信用しない。このモチーフは1960年代の作品に共通して現れる。素朴であるが力強い信頼。
 しかし21世紀にみると、この関係が壊れてしまった。売上や読者の減少、新メディアへの対応の遅れ、巨大化した組織の疲弊などが相まって、マスコミは政治や圧力団体への批判や抵抗が21世紀にはとても弱くなってしまった。この小説に書かれたような傲慢さには辟易するものの、ときに権力の介入を突っぱねる稚気は心強い。