odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

コナン・ドイル「シャーロック・ホームズの帰還」(新潮文庫)-2 「六つのナポレオン」「アベ農園」。ホームズは近代の人間ではなくて、理性に身と心を捧げた中世の騎士。

 いちどホームズを殺してしまったのを、一世一代のトリックで生き返らせた。とはいえ、一度死んだのは1894年で再登場したのは1904年ころとなると、この間の空白をどう埋めるのか。そのため、この短編集には執筆当時の現在の事件と、1894-95年ころの過去の事件が入り混じっている。だれかが事件発生順に並べ替えたリストを作っているはずだが、ここではそんなことに拘泥せずに、発表順に読んでいく。


六つのナポレオン The Six Napoleons ・・・ フランスの彫刻家ドゥヴィーヌ作の有名なナポレオン頭部彫刻の複製石膏像が次々と壊される事件が起きた。3つめが壊されたとき、人が殺されていたとなると、調査に乗り出さなければならない。販売店、卸、製作所を調べていき、ようやくある職人のつくったロットだけが盗まれていることが分かった。このあと無数の模倣作(といって思い出せないけど)がでた「奇妙な事件」のプロトタイプ。誰もが見逃すようなありふれたことに「事件」を見出すホームズの眼力(あまりいきすぎるとクイーン「ダブル・ダブル」や法水麟太郎のように事件を「捏造」することになりかねない)。

三人の学生 The Three Students ・・・ 奨学生を決めるギリシャ語試験の前日、試験官の部屋から問題の別刷が盗まれた。出入りできるのは、試験官の教授にその事務担当官、3人の学生(優秀なイギリス人、不愛想なインド人、粗暴なイギリス人)。いったい誰でしょう。クイーンの短編にあるような犯人あて。この時期に、イギリスの大学寮には電気が通じていて、電灯がともっていた。日露戦争の日本では、きわめて限られたところだけではなかったかな(夏目漱石でいうと「坊ちゃん」1906にはなくて、「三四郎」1908にはあった)。

金縁の鼻眼鏡 The Golden Pince-Nez ・・・ ギリシャの研究者の家で研究助手が殺された。手には金縁の鼻眼鏡が残されていて、家の周囲の草むらは荒らされていない。車椅子を使う老年の教授はひっきりなしにタバコを吸い、食欲が旺盛。犯人当てはできない代わりに、奇妙なできごとに意味があることが分かるというのが快感。背景にはロシアのヴ・ナロードボリシェヴィキの運動があり、少なからぬ活動家が亡命して暮らしていたということ。そういえばこの時代、レーニンもトロツキも名は知られていなかったが活動中。

スリー・クォーターの失踪 TheMissing Three-Quarter ・・・ 明日がケンブリッジとオックスフォードのラグビー対抗戦。その大事な試合に選手が失踪した。彼は偏屈な貴族の息子で遺産相続人。彼の資産をねらった誘拐か、それとも試合の賭けにかかわる脅迫か。嫌疑は医学者に集まるが、この老人はホームズ並みの頭の切れを見せて、ホームズの捜査を翻弄する(ホームズはなんとレンタサイクルで馬車を追いかける)。この医学者がモリアーティほど有名でないのは、ひとえに高潔な人格の持ち主だから。

アベ農園 The Abbey Grange ・・・ Abbey農園は、奇しくもほぼ同時期のウィリアムソン「灰色の女」の幽霊塔と同じ名前(ただし「灰色の女」は「Loan Abbey」)。ここに賊が侵入して当主が撲殺された。凄惨な現場に古いワインと3つのグラス。切り取られそうな呼び紐。現場にいあわせた夫人とメイドも賊の仕業と証言する。でも、ホームズは現場の物証に違和感を感じる。グラスが残されているのに、指紋を調べないのはなぜと、乱歩御大が疑問を呈している(「明治の指紋小説@探偵小説の謎」を参照)。

第二の汚点 The Second Stain ・・・ 公開されると戦争必至な外交官の手紙が内閣に届いた。それを大臣が保管することになったが、出入りのできない部屋から盗まれてしまった。おりしもこの種のスキャンダル文書を盗んではゆすりをする大物が一人殺されている。首相の内密の要請にこたえて、ホームズは現場検証を行う。「ボヘミアの醜聞@冒険」「海軍条約文書事件@回想」によく似た事件で、これがもっともつまらない。仰々しい出だしが、すっかりしぼんでしまった。それにホームズに余裕がないところも。この短編では「第二の汚点」事件がホームズの現役最後の事件で、養蜂家として引退することが予告されている。


 最後の二編では、ホームズは超法規的措置を行う。すなわち、法治主義を捨てて、公権力による公平な裁判を無視し、私的制裁を実行している。人情からいうとホームズの決断には納得するところがあっても、さて権力の治安体制を補完する立場にある「探偵」がそんなことをしてよいのか。この問題にイギリス探偵小説はうまく答えていないような気がする。ホームズのこの決断を問題にするような言説は過分にして聞かない。そのあとの探偵小説でも、モール「ハマースミスのうじ虫」ブレイク「野獣死すべし」などでも、見逃されたし(その点、ヴァン・ダイン僧正殺人事件」「カブト虫殺人事件」、クイーン「Yの悲劇」などは問題提起されていた。イギリスとアメリカの自由主義や民主主義の違いが垣間見えそう)。
 ホームズの私的制裁(ジョン・ロックが否定した行為)を許す感じがあるのは、ホームズが近代の人間ではなくて、中世の騎士だからではないかと思っている。たった一人のレディに人生をささげた騎士は、レディのためという理由でどのような行為も「善」とみなしていたから。もちろんホームズは誰か特定の女性に恋したことはなく、理性に身と心を捧げているのである。現実にはありえない生き方を実行できるのが騎士であるし、読者はそこに憧れを持つのではないかな。


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