マンハント(人間狩り)の物語。前半はピーピングと尾行が語られるが、そこに背徳とか罪悪感はない。バルビュス「地獄」との差異は作者の国籍の違いによるのか(実務家のロックと理想家のルソーの違いとか)。主人公が上記のような負の感情を持たないのは、自分が正義を実現しているという信念があるから。とはいえ、この国の正義感とは微妙にずれていて、実現していない犯罪を防止することに個人が容喙するのを容認できるか、ピーピングや尾行を実行者の正義感でもって容認できるのか、ここらへんは議論になるよなあ。
37歳独身のワイン商(イギリスで商売になるんだ、ビールとウィスキーだけかと思った)キャソンは人間観察家。クラブで飲んだくれている銀行家をみて好奇心を激しく刺激される。それとなく話を聞くと(ここらへんの人に近づくきっかけの作り方がとてもうまい)、匿名者の恐喝に悩んでいるとのこと。恐喝の中身も、事実ではないのに拒否すると自分の評判を落とすという卑劣なもので、しかも2回以上の脅迫は失敗するから一度しか金を受け取らないという巧妙さ。ほんのわずかな手がかり(いくつかの身体的な特徴とローマ時代の胸像に興味と知識をもっている)から恐喝者をあぶりだしていく。キャソンは警察に友人を持っているので、行動は彼らの承認のうえに行っているが基本的には個人の責任。
恐喝者と思われる人物をあぶりだすのはいささか都合よく進みすぎるのだが(ローマ時代の胸像のオークションに現れるだろうとか、その場で尾行を開始してすぐにアパートを見つけるとか)、そのあとのマンハントは地味だが現実的。すなわち、張り込みのできる家を借り、終日カメラを片手に監視する(イギリスの郊外の家の様子は「モンティ・パイソン」などで実写を見ておくとよい)。恐喝者の習慣を確認しては、そのあとを裏付ける、など。このあたりの描写はMI5の情報部に所属した経歴を持つ作者ならではのリアリティを持っている。なるほどスパイの日常とはこういうものなのだ。恐喝者を見出し、犯罪を未然に防ぐことができず、それゆえにさらなる信念に燃えて、恐喝者と近づきになるまでが前半。後半は、確証を得てからの脅迫者の追い込み、そして自白を引き出すまで。キャソンと友人の警視ストラットの視点から見ると、緊迫感はこの上ない。なにしろ、物証はほとんどなく、数名の証言だけだから。途中、脅迫者による殺人が行われるが、そこからも物証は見つからない。にもかかわらずいかに犯人を追いつめることができるか、ページをめくる手を止めることができない至福の時がまっている。なるほど「傑作」だ。
1955年の作。あと、「ハマースミス」は地名。恐喝者の住んでいる町の名前で、「うじ虫」というのは恐喝者を蛇蝎視するキャソンたちの命名。
というような感想を初読時にもった。今回の再読ではすこし異なる。上記のように正義にかかわることだ。この小説に描かれたリアルなスパイ活動は非常に面白い。しかしだよ、キャソンと恐喝者の関係は対等ではない。恐喝者は孤独で仲間を持たない。もちろん犯罪の秘匿のためには必要なことだ。一方、キャソンは警察関係者を友人にもち、彼の力で警官を動員できる。制服警官による職務質問、私服警官のあからさまな尾行、別件逮捕からの自白引出。ここらへんの力関係が自分にはすっきりしない。冒険小説やスパイ小説では主人公が単独で無力で、組織の力を借りられず、腕一本と知恵でもって窮地を脱するというのがカタルシスなのだが。それに、この恐喝者の思想のいじましいこと。自分にはほとんど関心をひかなかった。無個性であり社会の関心をひかないという劣等感、その反動としての他者への嫌悪感と博識の優越感、これらがないまぜになったコンプレックスの塊。ラスコーリニコフのような神との死闘はないし、ジュリアン・ソレルのような出世意欲・権力欲もない。要は思想的な「問題」を見出せるような存在になっていない。犯罪者は裁かれるべき、は同意とはいえ、ここまでコストをかけるものなのかねえ。今回はピーピングと尾行の相手が犯罪者であったからめでたしだけど、そうでない場合はキャソンの行為は容認される? やはりロックの言うように(「市民政府論」)犯罪の捜査と処罰は一般意思を集約する組織(国家とか共同体)にまかせるか、資本主義社会のように専門業者に委託するほうがよいのでは。小説は関係のないところにまで思考が飛んでしまったので、おしまい。
(まあ、逆に言うと、恐喝者のいじましさが凡庸なだけに、読者には近しいのだがね。キャソンとの取引で、初めて社会に存在を認められることに歓喜するのだが、それはわれわれにもあるものだなあ、と。そのいっぽう、彼のようにルサンチマンを生きるのは正しくないということも再確認。)