「頼子のために」の事件から半年。最後の決断のあと、探偵は深刻な懐疑にとらわれる。仕事はできず、事件に関与することもできない。まあ、自傷が高じて、社会性を失っているとでもいうか。
深夜、「雪密室」の事件の関係者であり、現在はアイドル活動中の畠中有理奈から電話がかかる。ラジオ局で男に襲われ、刺されたはずなのに自分は無傷。行先がないので相談したい。というのは、過去の事件で自分の両親が殺人者であり、その血が自分に流れていることを恐れているので(生物学や遺伝学ではありえず、本人の思い込みや妄想)。なるほど、有理奈のセーターには人血がついている。とりあえず法水の自宅マンションに保護した後、情報収集にでると、ラジオ局のそばの公園で男が殺されていた。有理奈の証言とあわせると、その男が有理奈を襲った男と思われる。男はラジオ局をでるのを目撃されている。となると、局内で襲撃された後、公園で事切れたと見え、有理奈の証言と一致する。
有理奈は零細プロダクションに所属しているが、大手プロに疎まれ、妨害を受けていた。ことに著名な映画監督の新作に主演が内定しているが、大手プロは別のアイドルに代えることを策謀している。出版社にも手をまわし、上の事件とからめて、有理奈が殺人者の娘であるというスキャンダル記事をだそうとしていた。そのゲラ記事を読んだ有理奈は浴室で自殺を図る。
そこにいたって、法月親子は有理奈の無実を信じ、警察の捜査とは別に調査を開始。当然、警察も二人をうさん臭く思い、情報は得られず、有理奈有罪の間接的な証拠が次々と上がってくる。
ここでタイトル「悪夢」の意味が浮かび上がり、事件の関係者がそれぞれ過去に経験した過ちを後悔し、現在の行動を縛ることになっているからだ。すなわち、綸太郎は「頼子のために」で私的制裁に関与したことを、有理奈は17年前の実父と双子の兄の殺害の理由を、有理奈の義父(父の弟で、17年前の事件を担当した刑事)は同じ事件に居合わせたことを。ほかにも事件の関係者は有理奈の周囲にいて、それぞれが過去の事件を「悪夢」として認識している。過去の事件も現在の事件も、人の血が流れていることから「赤い」のである。先にいったように生物学や遺伝学ではデタラメであっても、この国の社会ではありうると思い込むような偏見が彼らを桎梏するのであり(むしろ事件を忘れない社会の側が偏見を押し付ける)、それを解くことがこの事件の関係者の問題に他ならない。となると、現在の事件はきっかけなのであり、過去の事件のほうがより重要なのである。過去の事件が陰惨であり(二つの家族の間のいさかいである、死者多数)、解決があいまいであること、関係者がかたく口を閉ざし、何があったかを語らないために、事件の周辺にいたものは想像をたくましくするしかなく、それが彼らの行動をすさませていく。表面上は問題のない家族とその係累であっても、底には負のエネルギーが蓄積されていて、さざなみ(というには現在の事件は大きく、かつ陰湿)が起きると負のエネルギーは現実の行動となって噴出する。そこにおいて愛憎、ねたみ、にくしみなどの複雑な感情があらわになる。そしてもっとも傷つけられるのは日本社会のマイノリティ(ここでは女性であり、子供)。これは「頼子のために」「一の悲劇」にも共通するところ。
(有理奈の本名「中山美和子」には個人的な思い入れがあって好ましい。でも、男の作家が10代の女性を書くと、無垢であり、巫女のようであり、予測できない奔放さをもち、繊細で傷つきやすく、媚びを売りつつ逃げだし、しかし世界の鍵のありかを隠しもっているというような属性を付け加えていて、実在の女性から遠く離れている。でもアニメやマンガのキャラクターに似ているので、受容してしまう(萌えてしまう)存在になる。俺はだんだん感情移入できなくなった。)
(笠井潔の解説をチラ見したら、三作の共通性に妊娠できない母をみている。加えると、優柔不断で、初恋の相手を忘れられないロマンティックな父も共通するとみていい。この三作は1990年ごろに起きたのだが、いずれも10代の娘をもつ家族に起きているので、当時の父と母の典型を見ているように思うのだ。戦前の家父長制がなくなって、強い父がいなくなった後、父母の権威に抵抗したベビーブーマーのつくった父の像がこういうロマンティストであると思うと、ちょっと情けない)。
他人を助けたいと思うが、その行為をすると他人を傷つけてしまう(と思い込んでいる)人たちの物語。同じ主題はフィリップ・K・ディックにもあるが(作者のお気に入り作家)、PKDほど壊れた人たちではないし、哲学や神学にいかれているわけでもない。なので、自己回復と社会性の獲得の物語は比較的健全に進む。とはいえ、作者はちょっとずるいと思うのは、他人を助けることで自分を助けるという行為を法月探偵が他人に命じるところ。ここでは有理奈の父であり、映画監督でありと、年上の父母である人たちにたいして。子供を持っていて養育の責任があるから、耐えて行けという。あるいは年少者。ここでは有理奈とその兄。彼らには過去を捨てて未来を見ろという。でも、法月自身とその同世代(20代後半の独身者)にはそのような克服と回復を要請しない。他者との関わりについて、自分(と取り巻き)にはわりと甘いのだよね。
現在の事件も過去の事件も、物証や証言のあいまいさに起因して複雑になっているが、構成しなおすとそれほど複雑ではない(ロス・マクドナルドのほうがもっとややこしい)。でも、これまでの長編の二倍の分量になっているのは、上の主題について各人の考えや会話を克明に記録しているため。それまでの作品であれば第1部の350ページ(文庫版の場合)は端折って、第2部から始まるだろう。それでも350ページを費やすというのは力が入っている。30代初めの初読時では、その力技に圧倒された(1992年初出)が、四半世紀以上たって読み直すとそのままでは受け入れられないところがあった。
(エラリー・クイーン「九尾の猫」の終わりでセリグマン教授がエラリ―に授ける英知「神はひとりであって、そのほかに神はない」の解釈があらわれる。そこでは柄谷行人「探求II」の第五章「無限と歴史」の冒頭が引用される。
「神が「無限の実体」だということは、それを超越するものがありえないこと、その外部がないことを意味する。《神はあらゆるものの内在的原因であって、超越的な原因ではない「エチカ」第一部定理一八)。神は超越的でなく内在的である。いいかえれば、神とは、自然であり世界のことである。それは「唯一の」世界である。つまり、一切がこの世界内に属するのである。それが「無限」ということの意味することだ。(柄谷行人「探求 II」講談社学術文庫P169)」
同じ本を読んでいたが、茫洋と読んだから、このようなところでつながるとは思えなかった。とはいえ、「神が『無限の実体』だということは、それを超越するものがありえないこと、その外部がないことを意味する」というスピノザの考えになじめなくて、よくわからない。)。
2018/12/06 柄谷行人「探求 II」(講談社)-1 1989年
2018/12/04 柄谷行人「探求 II」(講談社)-2 1989年
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2019/06/18 法月綸太郎「ふたたび赤い悪夢」(講談社)-2 1992年