夢野久作は1923年、関東大震災の一年後に地方新聞の記者として東京を訪れた。1889年生まれなので当時34歳。「勤倹尚武思想を幾分なりとも持っている明治人は、科学文明で煎じ詰められた深刻な享楽主義をとても理解し得ない」と考える夢野は、取材の末に東京は堕落していると結論付けた。その時のレポートが新聞に連載された。以下の二編にまとめられた。
街頭から見た新東京の裏面 1924 ・・・ 初出は「九州日報」で1924(大正13)年10~12月に連載。震災がどのようにおき、どのような被害が出たかはよく知られているが、どのように復興したかのレポートは少ないので珍重する。震災後の都内の風景を記録したのは、今和次郎がいるが夢野久作もそれに加えられる(新聞記者だったのかな)。夢野は福岡に居住しているので、自らを田舎者と位置づけ、江戸っ子を観察・批判する。ここで起きているのは、都内に住んでいた江戸っ子はどこかに行ってしまって戻ってこない。一方、震災復興で一山当てようと田舎者がたくさん集まってきた。江戸っ子もせいぜい3代入れば名乗れるものであるが、明治維新からの50年で根を生やしたかかに見えた江戸っ子には災害復興の熱はなかったといえる。その結果、過去100年くらいかけてはぐくんだ庶民文化(夢野はプロ(レタリア)文化という)がなくなってしまった。代わりに田舎者がモラルとマナーを共有せず、共同体意識に欠け、無教養・無気力・無節制な生き方をするようになった。明治維新でも起きなかった文化・教養の断絶が震災で起きたわけだ。それもよくないほうに。とはいえ、辺境に住む夢野からみた江戸っ子はこんなふう。
「(江戸っ子は)、消極的文化式個人主義(少々ややこしいが)である。彼等は先祖代々の都会生活と、自分自身の教育の御蔭でここまで自己を洗練したのである。彼等は極めて消極的な態度で自分の気位を守ると同時に、無言の裡に他のハイカラや蛮カラ、又は半可通連を冷笑しているのである」
「プロ型のブル気分、平民式の貴族気質の持ち主」
「こうした消極的な文明的な「個人主義」が、江戸ッ子の智識階級をすっかり冷固(ひえかた)まらしているから、東京の市政が如何に腐敗していても、彼等には何等の刺戟を与えない。」
「江戸ッ子の智識階級は亡びてはいない。しかし只一人一人に生きているというだけで、世間とか、他人とかいうものとは深く関係する事を好まない。」
要するに、日本にはフランス革命で生まれた「市民」はいないし、シティズンシップも生まれなかった。明治維新でも、自由民権運動でも、米騒動でも立ち上がらなかった江戸っ子は、日露戦争「勝利」の報酬が不足して日比谷で焼き討ちをした以外で、権力に抗することをしなかったというわけだ。それは今に続くわけで、夢野の見た江戸っ子はもう日本人全般というしかない。
(ヤンキースタイル、ボーナス、クリスマスの文字が本文中に見え、すでにこれらは東京人の日常語になっていたようだ。あと、焼け跡に再建された商店がけばけばしいという話があり、のちに看板建築と名付けられた建物の最初の記録になった。)
東京人の堕落時代 ・・・ 前のレポートが「東京人」というくくりだったが、こちらは主に若者。そのころから目立ってきた女学生、不良学生、チンピラ、女給、デパート店員などが俎上にあがり、破廉恥で猥雑だというように批判、批難される。21世紀から見ると、いいがかりでしかないのだが、「勤倹尚武思想を幾分なりとも持っている明治人」からすると、新風俗は堕落にしかみえないのだろう。なるほど夢野が怒るのは、
「日本人の頭は何等の中心力を持たぬ。「正しい」とか「間違っている」とかいう判断の標準を持たぬ。「善」とか「悪」とかいう言葉よりも、「新しい」とか「古い」とかいう言葉の方がはるかに強い響を与える。」
ということにあるわけで、「何等の中心力」をもたない東京の無教養・無節制はダメだということになる。もともと夢野は父権主義やマチズモが強いので、自分の主張をする女性や若者はダメとされるのだ。あまり深く触れられないが婦人参政や産児制限に批判的・嘲笑的であるのもそういう理由。ではどうするかというと夢野の主張はこころもとない。西洋の物質文明に日本の精神文明で対抗しろという。では精神文明の中身はというと説明できない。たぶん「『正しい』とか『間違っている』とかいう判断の標準」についてきちんと考えたことがないため。夢野ばかりではなく、日本の知識人は明治維新以降正義や善をきちんと考えてこなかったから、こんなあいまいな物言いしかできず、結果として「精神文明」というイデオロギーをふりかざすしかできないくなってしまう(これは「ドグラ・マグラ」でもそう)。ここら辺は夢野の弱いところ。
興味深いのは同時代を書いたり回想した小説を読むと、印象はガラッと変わる。夢野が嫌悪したモボ・モガ、不良、チンピラ、高等遊民らが行った都市の放浪や冒険は魅力的に映るのだ。たとえば、谷崎、乱歩や横溝正史である。
谷崎潤一郎「犯罪小説集」(集英社文庫)
松山巌「乱歩と東京」(ちくま学芸文庫)
あるいは、エリートたち(落ちこぼれを含む)の青春でもそう。
今東光「悪太郎」(角川文庫)
伊藤整「若い詩人の肖像」(新潮文庫)
金子光晴「どくろ杯」(中公文庫)
淀川長治「自伝 上・下」(中公文庫)
ほかにはちょっと時代の下った(1930年代半ば)の、鈴木清順「けんかえれじい」や埴谷雄高「死霊」(筒袖の拳坊)なども加えられる。それらを見ると、夢野が堕落と断じたところが彼らには魅力として映る。俺もそう見る。
なお、平岡正明は「品川駅のレコードの謎」(雑誌「ユリイカ」1989年1月号)で、夢野久作は東京訪問の際に関東大震災で起きた朝鮮人虐殺を知り、それをこの評論に反映させていると書いている。当時にはそのことは書けなかっただろうけど、さてどうだろう。東京人への嫌悪の向こう側に朝鮮人虐殺があったというのは読み取れなかったなあ。むしろ福岡に残された京風貴族文化による東京の野蛮で閉鎖的な新興文化批判と思ったのだが(本文中では自身を田舎者とみているようだが、文化批判の中心は「江戸っ子」の無教養・無知・無節制にあるので。屈折した田舎者批判と。與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)の議論を先取りするものだと読んだ。)
夢野久作の最初のレポートは戦前右翼の思想の参考になるように思えたが、後者の父権主義やマチズモには辟易した。そう感じると他の作品、小説の同じ特徴が気になって、急速に色あせたものに感じる。夢野久作を読むことはもうないな。