ベネゼエラの犯罪者の「私」(終身刑を宣告されている)が怪しげな漁師だったか船員だったかの誘導で、ソロモン諸島にあると思しき無人島に隠れ住む(近くの都市がラバウルだから、この辺なのだろう)。この島は周囲から隔絶していて、船は来ない。人がいないのは高潮で島の平地が水没するからだ。
さてこの島には1920年代に建てられたらしい「博物館」がある。無人島であるはずなのに、一団の男女が盛装して語り合い、一人で海原を眺めていたりしている。「私」はフォンテーヌという名前の若い女にひかれるが、彼女は「私」に不思議な無関心を示す。彼女の前で語りかけても、彼女は無視し、言葉も視線も返さない。それが何度も繰り返される。
博物館に一団の男女が集まっているのを発見し、「私」は忍び込んで「モレル」と呼ばれる男の発明を聞くことになる。今の言葉でいえば、ホログラフィーのさらに完成版というのかしら。すなわち肉体の動きを完璧に記録し、三次元上に再現するという技術。そうすると、再生機械の動いている限り(高潮を利用した潮力発電機が島の地下で見つかる)、再生は繰り返される。恐ろしいことに、この機械で録画・録音された生物はのちに緩慢に死んでいく(というより肉体の構成分子が録画・録音に移動して、肉体がうつろになっていく感じか)。「私」は機械と発電の仕組みを理解し、現在繰り返し上映されている男女の語らいに、もう一人の登場人物となるべく画策する。
表面的な主題は、人ではないものへの過剰な愛情。たとえば、E.T.A.ホフマン「砂男」で示した機械人形オリンピアへの恋、江戸川乱歩「押絵と旅する男」の絵画への恋、その他いくつもの話がある。そこでは恋愛にある交換というか交通というか相互の関係がなくて、一方的な感情移入と徹底的な無視があって、その関係(とはいえないよな)の異常さが恋愛の不気味さを浮かび上がらせるのであった。
もうひとつは、モレルについて。この名前とシチュエーションはウェルズ「モロー博士の島」を想起させる。人体改造による不死性の獲得、そして永遠なる存在への革命。このような観念に取りつかれた男がつくる閉鎖世界。もちろんそれは外から見ればディストピアなのだが、モレル=モロー博士にはそれがわからない。どちらも「独身者」であって、上記のような恋愛を断念しなければならず、脳内妄想を現実化することに取りつかれているから。こういう「独身者」は「機械」という外部装置への偏愛を示すのだね。上記砂男のオリンピアも独身の博士が作ったのではないかしら。まあ、読み取りはこのあたりでよいだろう。
と思って、解説を見たらこれでは足りないと愕然とする。著者はボルヘスと共作するような親密な間柄。ボルヘスの短編に
「(ビオイ=カサーレスと)ある種の一人称の小説の構想――語り手が事実を抜かしたり歪めたりして(叙述の上で)いろいろな矛盾を犯すことになり、その矛盾のために、小説の背後に隠された、恐ろしい、あるいは平凡な真実は、少数の読者、ごく少数の読者にしか推測することができない――そんな一人称小説の構想について、夜遅くまで長々と論じ合った(P183-4)」
と書いてあるという(追記。「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」。「伝奇集」(岩波文庫)所収)。もちろん「一人称の小説」は「モレルの発明」に他ならない。とすると、上の読みでは見落としていることがある?
解説には記述の矛盾がいくつか挙げられている(時間の混乱、とくに博物館の建設と実験が行われた年、「私」が島に来たのはいつかなど)。それを踏まえてみると、ここには3つのテキストがある。A.「私」が書いた記録(全体の大部分)、B.モレルが残した演説草稿(実験の詳細を一団の男女に説明するためのもの)、C.刊行者の注。まず気づくのはAとCで矛盾しているところ(Cが「この記述はない」という文章は冒頭に出てくるとか、Aによる島の位置の推定にCが異議を唱えるとか)。そうしてみると、「私」の記述は極めて疑わしいということになる(一応念のため。モレルの発明はもちろん読者の現実世界で実現していない技術であるが、その疑わしさはカッコにいれておき、問わないことにする。あくまで記述のあいまいさだけに注目)。まずBの演説草稿がモレルによって書かれたかがわからない。Aの「私」の記録は、Bの演説草稿を書いた紙の裏側に書かれていることになっている。しかし、そのことを書いているのは「私」なので、真偽のほどは不明。
解説は「私」=モレルという推測を提案しているが、その線でみていくのが正しいと自分も思った。それを実証するにはやめておくことにする。正しいからというより、その仮説によって種々の矛盾を合理的に説明できるから採用するのだ。「私」=モレルであるとするとき、プロットはストーリーと大きく反転する。すなわち、ファンテーヌに恋するモレルは「現実」で愛を受け入れないファンテーヌを永遠化するために「機械」を作り、録画・録音する。それによる怪死・失踪が相次ぎ、モレルは終身刑を宣告。実験を行った島に舞い戻り、録画・録音の中に自分自身を残していなかった(モレルが操作しなければならない)ので、録画・録音の中に入ることを画策。そのときの記録がこの小説。もしかしたら、小説前半でファンテーヌは誰かの男と愛の語らいをするのだが、それはファンテーヌの映像に重ねるように追加録画・録音したモレル自身であったのかも。
こんな風に、テキストの錯綜は、ストーリーとプロットを錯綜させ、いくつもの解釈をうみだすことができそう。上に書いた自分の解釈は一つの仮説で、なんの根拠もない。作者はすでに故人なので、彼に聴くわけにもいかず、問うたところで「真実」を語るはずもなく、読者は宙ぶらりんのままあいまいな気分を抱えなければならない。自分の解釈もヘボ探偵のたわごとにすぎず、矢吹駆に嘲笑されるに違いない。
1940年初出の第1作長編。1914年生まれだから26歳の時に書かれたのか。驚愕!ボルヘスが序文で「完璧な小説」と称賛しているが、激しく同意。