odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

高木裕「今のピアノでショパンは弾けない」(日経プレミアシリーズ) のはショパン没後に大改良が加えられたため。西洋では聞き手も弾き手も少なくなった西洋古典音楽は維持できるだろうか。

 2015年の宮下奈都「羊と鋼の森」(文春文庫)を読んだときに、主人公の調律師見習いの青年はその先をどう作るのかわからないと思ったが、彼にふさわしいキャリアが本書にあった。思った通り、会社の用意したルートから外れて、より上の仕事を求め海外に行く。技術を磨いたのちに帰国するも地元に戻らない。仕事の相手は一流のプロピアニストであり、レコード会社のプロデューサーやディレクターであり、彼ら一流の容赦ない指摘に対応して信頼を得ていくのである。著者高木はのちに独立し、調律をするとともに、コンサートピアノをレンタルするビジネスを起業し、そこでも成功を獲得した。それは経済紙の目に届くことになり、クラシック音楽業界誌のみならずビジネス誌にも文章を書くようになるのである。小説の筋にするには世俗的にすぎるかもしれないが、ビジネス書(およびエグゼクティブ向け教養書)であれば十分な内容になるのだ。

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 タイトル「今のピアノでショパンは弾けない」はとても扇情的であるが、簡単にいうと今のピアノはショパンが没したころ(1840年代)から発達し、とくに19世紀後半にアメリカ企業によって大改良を加えられたので、ショパン(およびそれ以前の作曲家作品)を演奏するには向かない、ということに尽きる。本書がでるくらい(2013年)のころから、ショパン以前の作品を同時代の楽器で演奏するケースも増えているので、タイトルの指摘はいずれ常識になるに違いない。実際、ショパン作品だけを演奏するショパンコンクールでも、21世紀にはモダンピアノとピリオド楽器のふたつの部門が作られたのだ。
 ピアノの改良(すでにあるチェンバロフォルテピアノの改造からピアノができているので「発明」とは言わないでおこう)には、産業革命市民社会の存在が重要。硬いフレームを作るための鋳鉄、複雑な機構の組み合わせや調整、さまざまな素材の調達などには産業革命が必須であった。ラジオ・レコードのない時代に手軽に音楽を楽しむためにピアノを購入したりコンサートを聴きに行く余暇と金のある市民がたくさんいるからピアノ産業が起きて継続できた。さらに新しい楽器に興奮するプロのピアニストや作曲家が積極的にメーカーに注文を付けて技術改良を行った。良いピアノができると作品が増えて、作曲家・聴衆・メーカー・興業社などの関係者が幸福になっていく。そういう回転ができていた。

(いくつかをメモ。ピアノメーカーは当初ドイツ・オーストリアに多かったが、ピアニストや作曲家の注文にこたえたのはパリのメーカー。産業革命に遅れたドイツやオーストリアでは職人気質が強すぎ対応しなかったのだ。19世紀半ばからクラシック音楽新作の発表の場はパリに移る。なので演奏家や作曲家はパリを目指す。音楽の中心がドイツやウィーンではないというのはこういうところでもあきらかに。さらにアメリカのメーカーが参入し、一大市場を作った。アメリカでは巨大なコンサートホールを作ってたくさんの聴衆を集めたので、巨大な音量・粒立ちのよい音が必要になり、ピアノはそれにこたえるように改良される。20世紀以降はアメリカのメーカーが強い力を持ち、その製品がグローバルスタンダードになる。ヨーロッパとアメリカでは、20世紀半ばからクラシック音楽は聞き手も弾き手も少なくなる。メーカーは没落し技術者も減少。そこに参入したのが日本のメーカー。世界中で評判が高まった。でも、日本の製品はグローバルスタンダードにはなっていないようだ。実際、ショパンコンクールには複数のピアノメーカーが楽器を提供しているが、本選で日本メーカーの楽器が選ばれることはまずない。というように、俺は著者の体験談よりも、こういう楽器の歴史・技術史・社会史のほうが興味深かった。)

 著者はクラシック音楽(とくにピアノ音楽)が消滅する可能性を憂いている。ピアノがコンサートホール据え付けになっていて、ピアニストは好みと異なる設定になっているピアノに「合わせる」努力をするので、ベストフォームになることはめったにない。ミケランジェリホロヴィッツがやったように専用ピアノと調律師を持ち込めればよいのだが、やろうとするとコストがかさむので興行主はやりたがらない(というわけで、著者はプロピアニスト向けのピアノレンタル事業を起こす。国内ツアーの際に、この会社が運搬と設置を請け負う)。それにしても、ピアニストも聴衆も批評家も、かつて持っていた良し悪しを聞き分けられる力が衰えている。楽器の均一性を求める傾向もとどめがたい。ピアノのよさが損なわれている。そこを何とかしないと・・・と作者は嘆く。
クラシック音楽の演奏には、譜に書かれていないことが大事で、それは伝承が必要。でも音楽のグローバル化と聴衆・演奏者などの減少は伝承を失わせている、という感想は、森本恭正「西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け」(光文社新書)と共有していそう。)

<参考エントリー>
2018/11/08 フレドゥン・キアンプール「幽霊ピアニスト事件」(創元推理文庫)-1 2008年
2018/11/09 フレドゥン・キアンプール「幽霊ピアニスト事件」(創元推理文庫)-2 2008年


 クラシック音楽の消滅という意見では、もうひとつ、楽器がなくなるという指摘もあった。とくに弦楽器が深刻。16-17世紀に作られた名器はあと100-200年程度しか持たない。それに代わる新作は作られていないという(20世紀後半の楽器は優秀になったそうだが、よい響きがでるのはあと2-300年先になるらしい)。著者は良品を提供していけば、マーケットはなくならないという考え。実際、クラシック音楽はヨーロッパから周辺諸国(19世紀)、アメリカ(20世紀前半)、次いでアジア(20世紀後半)とマーケットを拡大していった。さらに残されたフロンティアはあるのか、それとも既存顧客を囲い込んでいくのか。あるいは・・・。そのビジネス戦略でよいかどうかは話がでかすぎて、俺には意見はない。

〈参考エントリー〉 バイオリンがなくなるかもという危機については下記参照。

odd-hatch.hatenablog.jp

 

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