odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

オー・ヘンリー「傑作集」(角川文庫)-2「最後の一葉」「パンのあだしごと」「赤い酋長の身代金」 人間の見方がシニカルで敬意を払うことがない。

2021/05/07 オー・ヘンリー「傑作集」(角川文庫)-1 の続き

 

 オー・ヘンリーは数年の間に380編のショートショート(という言葉はまだなかった)を書いた。おおざっぱに、ニューヨークもの、中部もの、南部もの、中米ものに分けられるという。そのうち出来がいいのは、ここにある20編あまりというところらしい。たいていはニューヨークものにあたる都市の話。洒脱で落ちのある話は同時代のサキ(ちょっと後)と比較されるらしい。
(南部や中米ものは同時代のアンブローズ・ビアーズのほうができがいいのではないかな。ずいぶん昔に読んだので、曖昧模糊とした記憶だけど。)

f:id:odd_hatch:20210506091914p:plain

振子 ・・・ 夫婦喧嘩ばかりなので家にいない夫。ある日、妻が出て行ってしまった。涙を流す夫はもう遊び仲間と手を切ろうと決意した。「美服のあだ」→「賢者のおくりもの」→「振子」と夫婦生活はひとすじなわではいかない。というか男が身勝手なだけで楽しくない。

最後の一葉 ・・・ サマリー不要。世捨て人の改心。「ジャズ」が1904年にあったというのが発見。

自動車をまたせて ・・・ レストランに勤める青年が公園で本を読む女性に声をかける。彼女は金持ちの娘で、退屈しのぎに浮世の観察をしているのだという。うまくいかなかった「王子と乞食」で「ローマの休日」。

改心回復 ・・・ 金庫破りが刑期を終えて釈放されてから、見事な手口の金庫破りが続けて起こる。警察は行方を追いだした。その金庫破りは地方の町で靴のセールスで成功し、名家の娘と結婚することになった。お披露目の途中、幼児が金庫に閉じ込められてしまった。犯罪の技術も人助けの目的であると、称賛される。

犠牲打 ・・・ 雑誌原稿は近くの労働者に見せて決めているという出版社。そこに原稿を持ち込んだ青年、判定を下す女性に取り入って接待した。こうすればかならず合格になる・・・。ポピュリズムの出版社。もっとあとのアメリカ文学でも、原稿の良しあしがわからない編集長が掃除婦に読んでもらうというのがあったな。

パンのあだしごと ・・・ 顔色の悪い中年男がいつも古いパンを買っていく(ドイツ人なので意思疎通が難しい)。パン屋の女将は好意をもっていたので、血色の悪くなる男のために、パンにバターを仕込んだ。「賢者の贈りもの」になり損ねたお話。アメリカのコミュニティでは隣人がだれでどこから来たのかも知らないくらいに人との距離が離れていて、売買関係でのみつながっていた。都市の現在の始まり(このころヨーロッパからの移民ブーム)。
(あだしごとになってしまったパン屋の女将は水色の服を脱いでいつもの服に着替える。水色の服は女の子が着る服の色。恋愛しているという意思表示だったのでした。水色の服を着るのを止めることは失恋したことを意味します。)

水車のある教会 ・・・ 南部もの。娘をさらわれた粉屋がのちに成功し、故郷にもどって慈善事業を行う。そこで、貧しい孤児の女性を養女にした。アメリカの事業家は成功するとチャリティに熱心になるのだが、その一端が描かれる。サンデルによると、共和主義の考えに基づくとのこと。

宿命的打撃 ・・・ ニューヨークのはずれで出会った二人のルンペン。明日、300万ドル(週休20ドルの時代)が相続できるというが、長年の貧乏暮らしでその日が来るのが怖いという。眠れぬ夜を過ごした二人は弁護士事務所にいく。「自動車をまたせて」が中年男に起きたと思いなせえ。

新聞ラッパの響き ・・・ 昔の殺人事件は迷宮入りになったが、容疑者を警官は追っていた。ホテルで容疑者を問いつめると、たしかにおれのしわざだ、でもお前に1000ドルの貸しがあるから逮捕できないとうそぶく。そのうえ新聞社に俺が犯人だと電話をかけた。翌朝、二人が早ずりの新聞をみる。社会正義と個人間の契約が一致しないときに、両方を一気に解決する冴えたやり方。

催眠術師のジェン・ピーターズ ・・・ いかさま治療師が市長の難病を救う話。二回どんでん返し。

運命の道 ・・・ 自称詩人のミニョは妻と喧嘩して家出する。三叉路にきたとき、どの道にするかを選択する。左の場合、右の場合、引き返した場合。三様の未来。

都市通信 ・・・ 「私」による都市の見聞。19世紀後半にアメリカ横断の鉄道が敷設され、都市間の移動が簡単になった。おかげで長距離は鉄道で、市内は馬車で移動できる。もう騎馬の移動は不要で、カウボーイのような技術とタフさがなくても旅行できる。イギリスでパックツアーが販売されたのもこのころ。インテリによる世界見聞記が書かれるようになった。

赤い酋長の身代金 ・・・ 二人の悪党が子どもを誘拐して身代金をせしめようと計画した。「赤い酋長」と名乗るそのガキはとんでもないいたずらっ子だった。

 

 作者のショートショートばかりを連続して読むのはむずかしい。ほかの短編や記事の合間に読むのなら光って見えるのだろうが、ヘンリーの作品ばかりでは欠点が目立って、よさを消してしまう(マッカレー「地下鉄サム」も、サキやダールもそうだった)。
 20世紀の初めの小説のために、描写がくどくどしい。のちの短編作家(スレッサーブラウンブラッドベリ、ダールなど)なら数行ですますところを4ページもかけるものだから、集中力をそいでしまって。なるほど、都市の生活はフロンティアがなくなり(カウボーイと駅馬車が消え、奴隷労働が無くなって工場労働者が目立ってきて)、都市と消費社会が誕生したばかりという社会の変化に目をつけると発見はいろいろありそうだが、そこまでの社会的な分析をする甲斐はなかった。(1904-5年に書かれたものには日露戦争の話題が出てくることがあるので、そこは興味深い。作者やアメリカのマスコミはゲームをみるように、日露の戦争を遠くから眺めていた)。
 そのうえ、人間の見方がシニカルで敬意を払うことがない。「運命の道」の詩人の扱いが典型。無用の人には徹底して冷淡。よい話とされる「最後の一葉」にしても、アル中老人の元画家の扱いはひどいのではないか。金持ちと貧乏人の出会いもすれ違いにすることが多い。なにしろ、幸福になる、自己実現を達成する人がほとんど出てこない。いや、すべてをハッピーエンドにしろという気はないが、失敗も運であって甘受しろという結末がおおいのは気が滅入る。
 こういうタイプのあっさりした感情の人情譚はこの国にはめったになかったので、昭和の時代まではうけた。でも、この冷笑やどっちもどっちは21世紀にはあわないな。いまさら発掘するような作家ではない。まさか今でも小学生に読ませたりはしていないだろうな。