odd_hatchの読書ノート

エントリーは2800を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2022/10/06

深水黎一郎「ジークフリートの剣」(講談社文庫)

 表層の物語は、「恐れを知らない若者」であるヘルデンテノール歌手・藤枝和行がバイロイト音楽祭の指輪チクルスでアジア人初のジークフリート(@ワーグナー)を歌うまで。上演開始の1か月前にバイロイト入りをして、練習を重ね(いちど舞台の装置が近くに落下するという事故が起きる)、楽劇「ジークフリート」の初日を迎える。劇場とホテルを行き来するだけの暮らし。好色でもある若者が歌手やウェートレスなどにちょっかいを出して、性の遍歴を重ねるのがアクセントになる。一方、彼は学生時代からの知り合いの女性がいて、「ワルキューレ」のオルトリンデ役を最後に和行のマネージャーとパートナーになるつもりだった。バイロイト入りの直前に日本の占い師に見てもらったが、不吉な予言をする。その予言通りのことが起きる。

 この藤枝和行という若者、完璧な発声でもって周囲を圧倒する。身体と意識を別々にすることができて、身体を完ぺきにコントロールし、ステージフライトにかかることはなく、歌唱・演技の最中にミスが起きないようにするテクニックと意思をもっている。生まれながらのプロなわけだ。その結果、和行は他人を目的とするのではなく、手段(@カント)やツールとみなす。そこには芸術に奉仕するという目的や意図もない。たんに他人を圧倒すること自体が目的になっている。なので、バイロイトの看板テナーに選ばれたことは当然であり、演出もスタッフも彼に奉仕するものになっている(なぜか練習から本番にかけて指揮者の影響力がない。演出の意図は理解しようとするが、指揮者の指示には対等の関係であると誇示するためか)。劇場の外でも、知り合いの女性や女性歌手などとの関係は手段やツールとして役に立つかどうかが選択の基準になる。このような和行は自他ともに「恐れを知らない若者」そのものであり、その点でワーグナーの楽劇のタイトルロール「ジークフリート」と一致する。実際、この数か月間に和行の遍歴は「ニーベルンゲンの指輪」のジークフリートの生をそのままなぞるかのようなものだ。
(したがって、この小説では三人のジークフリート――ワーグナーの創造したキャラクター、楽劇「ニーベルンゲンの指輪」上演で藤枝和行が演じるキャラクター、「恐れを知らない若者」としての藤枝和行――が似たような物語を演じることになる。)
 練習期間中に知り合いの女性は小さな歌劇場の端役をうたうために移動する途中、鉄道事故に巻き込まれて死亡した。失意もあったが、和行は国境なき医師団で活動中の若い女性医師に惹かれる。パーティで、レストランで何度もくどき、断られ続けながら、ついにホテルに呼ぶことに成功する。官能の一夜のあと、「全身全霊をかけて愛すべき女と出会った」と確信する。ここではじめて愛を知り、他者を目的とする在り方に目覚める。そのような覚醒は上演の現場でくつがえされる。すなわち、過激な演出に対する怒りや東洋人テナー登板への嫉妬などがあったのか、最大の見せ場で重大な小道具(タイトル)が用意されていない。退場もできず、舞台にいる歌手に援助を頼むこともできない。そこでとった「たったひとつの冴えたやり方」。それは和行=ジークフリートに愛と後悔を思い知らされる残酷な結果をもたらす。
 他者を手段をして扱ってきた「恐れを知らない若者」が、他者を目的として生きるようになる。しかし、その他者はあらかじめ失われてしまっている。愛と後悔のうちに、英雄であることをやめて、凡庸に生き続けなければならない。それに耐えること。これが和行の「恐れ」になる。
(「恐れを知らない若者」の英雄譚という点で、本作は石川淳「荒魂」(新潮日本文学33) 伊坂幸太郎「あるキング」(徳間文庫)の姉妹編。蛇足を付け加えると、小説の終わりのシーンは長い楽劇の第1幕が終わったところ。この後大蛇と戦う第2幕と、初めて女性を見て興奮する第3幕がある。バイロイト音楽祭の慣例で幕間の休憩が一時間はあるとはいえ、藤枝はこの長丁場を乗り切れるのかしら? 数日後には「神々の黄昏」で大暴れしないといけないし、さらに次のチクルスが来るし。)
 というミステリーの外の物語が面白かった。謎解きになる事件は、物語中の一つの死と一つの事故(被害者はいない)。伏線の貼り方と回収は見事。すばらしいテクニック。
 加えて、俺のようなクラオタからみると、歌劇の上演プロダクション、歌手という生き方、バイロイトの演出史などの蘊蓄が充実していて楽しい。視聴者や享楽者にはこういうインサイダーの情報にはなかなかアクセスできないから、知らないことが多かった。登場人物たちによるワーグナー解釈も面白い。
(ドイツ圏では、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」は世界苦から救済する英雄の行為という哲学的大巨編となるのだが、極東でアジア人による上演をみると数百名の構成員をもつ古代部族の間でいさかいが起きたという話に縮んでしまうんだよね。なので、ジークフリートを世界を救済する英雄とみるのでなく、無鉄砲・無軌道な若者とみる藤枝の解釈には共感してしまう。)

 

 2010年作。その後(2019年現在)、まだ日本人歌手がバイロイト音楽祭ジークフリートを歌うまでにはいっていない。日本人歌手が登場したのは、1970年代の河原洋子を嚆矢として、1988年からの「パルジファル」でアルトソロを歌った片桐仁美(俺はエアチェックした録音をもっている)。タイトルロールに近い重要な役では、藤村美穂子が2008年の「パルジファル」でクンドリーを歌った。日本人の男性歌手がソロになったことは寡聞にして聞かない。(ちなみに合唱やオーケストラには多数の日本人出演者がいる。演出助手になった日本人もいる。)

 「韓国人声楽家としては、1988年にベース(ママ)のカン・ビョンウンさんが東洋人で初めて立った後、バスのヨン・グァンチョル、チョン・スンヒョン、バリトンのサムエル・ユンが(バイロイト)音楽祭の舞台に立った。」

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 バイロイトに限らず欧州のオペラハウスでは韓国人歌手がソリストで登場するケースがとても増えてきた。きちんと見ていないけど、オーケストラの奏者でもそう。昭和では欧州オケのアジア人奏者はほぼ日本人だったけど、21世紀にはそうとはいえなくなり、アジア人とひとくくりにしないと間違える状況。人種、民族、国籍の差異はそんなに大きいわけではない。日本人が、○○人がというのは意味がない。ここ大事。

 ついでに、「指輪」の録音というと、フルトヴェングラーショルティカラヤンベームバレンボイムティーレマン、ヤングなどが推薦盤にあげられることが多いが、自分の好みは1968年のスワロフスキー指揮大交響楽団チェコフィルらしい)と2014年のペトレンコ指揮バイロイト管弦楽団(ただしディスクなしでラジオのエアチェック)のふたつ。)