井上勝生「幕末・維新」(岩波新書)で1840-70年ころまでの日本をみてきた。このときに攘夷運動に基づく帝国主義国家が成立した、というのが自分の見立て。その後、この国はほぼ10年おきに対外戦争を繰り返した。兵員と軍事費の増加は国の経済を成長するおおきな足かせになったのだが、その問題に対峙することはなかった。なぜ国と国民は戦争を選んできたのか。教科書の図式的な説明を止め、同時代の文書を読み直すことによって、当時の考えと選択を明らかにする。
序章 日本近現代史を考える ・・・ 新しい視角で日本の近現代の戦争を考える。日中戦争で、当時の日本は戦争ではない、相手を認めない不思議な見方をしていて、武力行使は当然と考えていた(お仕置きをしている、悪い人を懲らしめるくらいの感覚か)。総力戦(前線と銃後の区別がなくなる、青年男子の人口と動員された兵士の人口が限りなく一致)では国家目標が必要であり、内側から国を変えるし、相手国を変える。したがったアメリカが日本を占領したとき、社会の基本秩序を示す憲法(憲法は国を成り立たせる基本的な銃所や考え方である社会契約を新たに結ぶ)を変え、日本の国体・天皇制を変えた。それは日本国憲法の前文にリンカーン演説の「Of the People, By the People, For the People」に似た表現があることでわかる。戦争の犠牲者数のインパクトが戦後社会を決定的に変える。
(歴史に学ぶ、教訓にするというとき、為政者や官僚が歴史を読み間違える例を示す。ナポレオンのカリスマ出現を回避するためにボルシェヴィキはスターリンを選ぶ。西郷隆盛のカリスマ出現や自由民権運動の軍隊への影響を回避するために明治政府は統帥権を統治権と分けたが昭和に軍部独裁を招いた。WW2の中国喪失(共産主義国家誕生)ショックがアメリカのベトナム戦争介入を泥沼化させた、など。日本占領モデルに固執してアフガニスタン駐留を続けたアメリカが撤退を余儀なくされたのも入るだろう。「ベスト&ブライテスト」も歴史の教訓に学び損ねているので、より多くの知識と情報を持つこと、広い範囲で物事を見ること、アップデートし続けることが大事。)
1章 日清戦争―「侵略・被侵略」では見えてこないもの ・・・ 明治政府は不平等条約の撤廃を求めたが、イギリス他諸外国は商法・民法などの法制度の整備を要求し、政府は憲法を含む法の作成に取り掛かった。植民地にすると軍隊の駐留が必要で経費がかかるが、イギリス他はそこまでする利益を日本に認めなかった。というのも中国市場の獲得が重要であり、中国の華夷秩序は便利だった(中国に話をつければ属国に告ぐ通る)。しかし1880年代に李鴻章が改革を開始。軍隊を作り武力で対決するようになった。ロシアとのイリ戦争、ベトナムでの清仏戦争など。朝鮮は中国の属国であったが、このころに関与を強める。植民地化する日本と衝突。イギリスはロシアの進出を抑えるために日本の側につく。日本が最恵国待遇を得れば、他の列強にも適用されるので、諸外国にとって日本の勝利は自国の有利になる(という具合に、極東情勢はイギリスvsロシアの代理戦争とみるとすっきりする)。日本の「勝利」は賠償金を獲得したが、領土獲得は三国干渉で潰える。
(これまでは「弱い中国、強い日本」という比較で日清戦争が語られてきた。その際には封建制、身分制が残る前近代のおくれた中国と朝鮮を日本が指導するという見方も含まれていた。そこに日本のナショナリズムを刺激する心地よい響きが含まれていた。井上勝生「幕末・維新」(岩波新書)と本書を読むとそこに思い込みがあるのがわかる。封建制の幕府も清も、外交に関しては老練であったし、上からの改革も進んでいて、遠征軍よりも強い軍事力を持っていた。それに手こずる帝国主義の近代国民国家は外交のルール破りをして、力づくで権力を打倒していったのだった。それは中国の巨大な市場が目当てであって、当時定期的に不況に陥る資本主義からすると、永続的な経済発展が可能なフロンティア市場を独占したい要求が強かった。当時の自由主義・民主主義は植民地争奪を肯定していたのだった。反対するのは社会主義・組合主義くらいだったのだろうなあ。)
(西南戦争で征韓論の西郷隆盛が死んだあと征韓論は静まったように教科書から読み取ったが、軍事占領ではなく、経済進出と外交で朝鮮を支配しようとしていた。なので当時中国の属国だった朝鮮に不平等条約を要求したり、軍事クーデターを起こしたりもした。中国はこれに対処し、日本の外交的言い分(朝鮮は「自主の邦(くに)」)を使って日本が介入できないようにし、暫くはデタント(緊張緩和)があった。ここで悲しいのは、自由民権運動の流れを持つ民権派が朝鮮支配を主張していたこと。市場拡大による景気回復が目的で、自由主義や民主主義の理念はなかった。のちに三国干渉のあと普通選挙運動が高まったが、これも軍事の成功を外交が台無しにした政府に民意を反映し、強権外交と軍事を進めるようにするものだった。大正時代が「内には民本主義、外には帝国主義」とされるが、それはすでに1880年代にはこの国に定着していたのだった。)
西南戦争で征韓論者である西郷隆盛とその支持者を完膚なきまでに叩き潰してから(返す刀で近衛兵の反乱も鎮圧)、この国では対外侵略方針を取らなかったように教科書は書いている。しかし、朝鮮への出兵は予算の問題でできなかったが、北海道と沖縄を植民地化し、先住民を弾圧する政策をとり続けた。台湾にも出兵し、外国に軍隊を駐留させるようにした(それを列強諸国は黙認したので、周辺の諸外国にも同じことをするようになる)。なので、征韓論は消えたのではなく、対象国を変更・拡大ことによって、植民地化を進めていったということになる。
これを「日本人」は容認し続けた。自由民権運動であっても、対外侵略行為を支持したのだった。日本には外国との関係を結ぶにあたり、従属国になるか占領して支配統治するかのどちらかをする。対等の関係を結び、貿易や交流などを活発に行い、国家を超えた共同体を作るという発想はなかった(というのは日本が長らく中華思想の圏内にあったためだろう)。その点では、19世紀の江戸幕府はまだ柔軟な外交と対応をしていたように見えるが、明治政府は反幕府であることがアイデンティティであるので、幕府の政策を継続しなかった。
2023/01/26 加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」(朝日出版社)-2 2009年
2023/01/24 加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」(朝日出版社)-3 2009年に続く