1999年、ある青年がドイツ・ハノーファーのカフェで目覚める。自分は1949年に死んだはずなのに。金は持っているので安心したが、50年で起きたインフレは途方もない。自分のできることであるピアノを弾くと、古めかしいテクニックと解釈(コルトーに似ているといわれる)だが興味があるといってきた学生に寝るところを世話してもらった。この町の音楽大学の宿舎だ。学生の出入りは頻繁なので、目につかないという。そのうえ、いっしょに死んだはずの友人も生き返っていた。
人間が生き返り、寝ているときには幽体離脱をして、本を読んだり、幽霊を見たりすることができる。ということを除けば、小説世界は実際の1949年や1999年と地続き。その間に起きた政治的事件や芸術の趣味の変化は読者の物理世界で起きたことを変わりはない。1999年の学生も死んだ人間が生き返ったり、幽霊になったりすることに戸惑うことなく、古風なエチケットを守る(しかし生前は戦後生まれの学生もびっくりするような放蕩をしてきた)青年を受け入れる。
1999年の音楽大学では彼らの周囲でおかしなことが起こる。幽霊を見たり、ピアノ専攻の学生がリサイタル中に殺されたり、同じくバイオリン専攻の学生もリサイタル中に殺されたり。どうやら、それは生き返った青年の知り合いがやはり生き返って芸術を冒涜するような連中を片端から殺害しているらしいと知れる。奸智にたけた知り合いの殺人鬼は、容疑を生き返った青年に向けるようにし、ふだんは立ち入らない警察も学内に入って、青年を追いかけるようになる。
なぞは三つ。「なぜ青年たちは生き返ったのか」「なぜ知り合いも生き返り殺人事件を起こすのか、容疑を青年に向けるのか」「青年たちは1949年にどのように死んだのか」。通常の探偵小説のように殺人の犯人あてやトリックの解明は主題ではない。でも、死んだ人間が生き返り、幽体離脱して行動できるという補助線を入れた世界では、こちらの謎の方が魅力的で、かつ自身の存在理由を問う行為にもなるので、重要。読者の側も考えを変えておいたほうがよい。
著者は1973年生まれで、ペルシャ人とドイツ人の両親からドイツで生まれた。ドイツは戦後移民を受け入れてきた歴史があり、共生政策をとってきたのでこのような出自の人は多い。ドイツのサッカー元代表メスト・エジルがその例。まあ、この国のように移民・難民を受け入れず同化を強制することはないと思うが、それでも最初の小説でアイデンティティをテーマにした理由を勘繰りたくなる。失礼。
著者の年齢は日本のミステリでいうと「新本格」の世代にあたる。翻訳によって文章の巧拙は消えてしまったのだが、それ以外の描写や人物造形は達者。本邦作では、趣向を仕掛けることに凝って、人物の奥行きがなかったり、ステロタイプな薄っぺらい人物が登場するのとは違う。たとえば、高校までは地方の神童であるが、大学で挫折して屈折したシュテファンは本邦作ではなかなかお目にかかれないキャラクター。
共通点もあって、1999年の物語の登場人物は音楽大学の学生ばかり。日本の大学生よりも年齢の幅が広いことと、他国の留学生が多数いることが違うが、似たような資質を持つ人の共同体の中で物語が進む。音楽大学生の日常はたとえば「のだめカンタービレ」などによく似ている。とはいえ、やはりドイツと日本の差が目に付く。ドイツの学生は日本の学生より大人びているなあ(ドイツではいったん就職してから大学に入りなおす人もいるので20代後半もいる。というか個人主義の人々なので主張をしっかりするくらいの差だろう)とか、奔放さはドイツの学生の方が徹底しているなあとか(学生主催のパーティに麻薬がでまわったり、乱交になったり)とか、教養は深いなあとか(といいながらドイツの学生の口にするものは全部お国ものでした)。
2018/11/09 フレドゥン・キアンプール「幽霊ピアニスト事件」(創元推理文庫)-2 2008年に続く