odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

小沼ますみ「ショパン 失意と孤独の最晩年」(音楽之友社) サンドと別れた後。ショパンが活躍する場所が消え、繊細な演奏技法は継承されなかった。

 ショパンの本は以下の二冊しか読んだことがない。
2014/02/25 遠山一行「ショパン」(講談社学術文庫)
2014/02/24 アルフレッド・コルトオ「ショパン」(新潮文庫)
 作者には「ショパン 若き日の肖像」「ショパンとサンド 愛の軌跡」の2冊が先にある。生涯を鳥瞰できるように3冊読むべきなのだろうが、残りの入手はむずかしそうなので、まずは最晩年を見る。

 ショパンの生涯を振り返ると、1810年生まれ。1830年ポーランド蜂起をきっかけにパリに亡命。ピアノ演奏で有名になり、1836年年上のジョルジェ・サンドと出会い、1838年からマジョルカ島で、41年からはパリで暮らす。しかしショパンとサンドは仲たがいして47年で別居。結核で衰弱したショパンは1848年パリ革命から逃れてイングランドスコットランドに行く。イギリスの気候は体に合わず、同年秋にパリにもどり、翌1849年10月17日に死去。享年39歳と7か月。同時期の作曲家と比べると短命であった。
 ショパンの作品を一生懸命聞いてきたわけではないので、おおざっぱな話しかできない。気づいたところ。

ショパンは公開演奏会(たぶんチケットを販売した演奏会)を生涯に30回くらいしか行わなかった。でも、上流階級のサロンに出入りして、非公開の演奏会を繰り返した。聴衆は100人もいない小規模で、音のよく響く貴族の部屋だった。そこでは大きな音を出す必要がなく、ショパンの繊細な演奏が映えた(逆に数百人入場するコンサートホールではショパンの音は十分に聞こえない)。48年のパリ革命のあと、貴族のサロンは縮小したか無くなったので、ショパンの繊細な演奏技法は継承されなかった。一方、コンサートホールで聴衆を圧倒する音量と技巧を披露できるリストやタールベルクらの演奏法はその後の音楽のパトロンになった中産階級の支持を受けて、さまざまな名人に受け継がれ20世紀につながる。

ショパンの名声があった1830-40年代、フランスで流行っていたのはベルリオーズマイヤベーアロッシーニというオペラ作曲家。ベートーヴェンも人気があった。共通するのは、明確なメロディ、力強いリズム、メリハリの利いたテンポ、多くの楽器と声を使った大規模な演奏集団、強弱のはっきりした演奏、長くて聴衆を高揚させる大作、多様な音色と豪華な舞台。市民階級の自由を後押しするような特長の音楽だ。しかしショパンがもたらしたのはその逆。溶けるような夢見るような曖昧なメロディと繊細な強弱、ひとりで弾く一台のピアノ、控えめで内省的な演奏、短くて余韻を残す小品。後のグノーやマスネ、フォーレドビュッシーなどにつづくエスプリの利いた「フランス音楽」のきっかけ(のひとつ)になった。

ショパンは亡命作曲家のかなり早い一人(ルネサンスバロックにもいそうだが、とりあえず近代の作曲家の範囲でということ)。単独で支援者のない異邦で生きることの困難さを示している。彼は主にレッスンで収入を得たらしい。サンドと同棲しているときは人気作家であるサンドの援助があったのかもしれない。サンドと別れると、収入が激減。いやな公開演奏会も引き受けなければならない(音量が小さくニュアンスを聞かせる演奏法なのでショパンはオーケストラとの共演を嫌がる)。体調の悪化はレッスンの回数を少なくすることを余儀なくされる。貴族や上流階級との社交をするので、服などに金をかけねばならない。死の直前に貴族夫人の援助がなければ、ショパンの死はより悲惨なものになったかも。根無し草でかつ独身で生きることの困難さが見える。

・1848年のパリ革命。サンドは共和主義に関心を示し、ショパン君主制に異論を持たない保守(サンドといろいろうまくいかなくなった理由のひとつ)。この革命にショパンは参加しようもなかったが、何が起きたかは
2014/11/14 カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」(岩波文庫)
2013/09/23 笠井潔「群衆の悪魔」(講談社)-1
2013/09/24 笠井潔「群衆の悪魔」(講談社)-2
2012/01/02 リヒャルト・ワーグナー「芸術と革命」(岩波文庫)
などを参照。最後のは、1813年生まれとショパンのほぼ同年代のドイツ人がこの革命に別の見方をしていたことがわかる。

SNSもネットもない時代。知識人や文人、芸術家は会うことで交通していた。晩年のショパンはイギリス訪問中に、サッカレーディケンズ・カーライルと会っている(だれも書き残していないので印象は薄かったのだろう)。パリにもどるとドラクロワ、アルカンらがショパンの家を訪ねる。

・1848年の革命とショパンの死は、西ヨーロッパの音楽が劇的に変換する象徴だった。
石井宏「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)-1 
石井宏「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)-2
小宮正安「モーツァルトを「造った」男」(講談社現代新書)

 


 これは知らなかった。ショパンとサンドの関係も見直されているらしい(ショパンに恋愛感情は薄かったらしいとか)。

ショパンはゲイもしくはバイ男性だったのに、ポーランドという国はショパンの死後、手紙改竄や歴史修正をして彼をロマンスたっぷりの異性愛者に仕立て上げたこともついでに覚えててくださいませ。聖人級有名人がゲイであってはいけないだなんてカトリックの悪影響でしかない。