odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ポール・ニザン「アデン・アラビア」(晶文社) 〈この私〉に違和感を持つ若者の不安で苛立たしく衝動的で落ち込みやすい気分の描写。

ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。
一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも、世の中でおのれがどんな役割を果しているのか知るのは辛いことだ。

怒りを向けよ。きみらを怒らせた者どもに。自分の悪を逃れようとするな。悪の原因をつきとめ、それを打ちこわせ。

 このふたつのアフォリズムによって名を残した若者(35歳で亡くなったのだから、今の自分には充分若い)。これに「30歳以上を信用するな」というスローガンを合わせると1950-60年代の「怒れる若者たちangry young men」の気分のほとんどを共有することになるだろう。以上の3つは当時いろいろ引用されたというし。
 これは1931年に著者26歳で書かれた処女小説。1926-27年に家庭教師としてアデンに滞在した経験が反映しているのだろう。一応背景を述べておくと、フランスは戦後のインフレで経済復興に遅れがあって、でも世界的な好況は反映していた。そこに1929年の大不況。ソ連の計画経済だけうまくいっているという宣伝があった。たぶんこの時代の若者は、自由市場はうまくいかない(不況を回避できないし、好況のときに人々を刹那的な生き方に変える)、その克服の道はファシズムコミュニズムしかなく、どちらを選択すればよいのかを迫られていた。ポール・ニザンはいち早く共産主義を選択した人で、そこのところはリセの同級生サルトルボーヴォワールにも理解しがたいところだったのだろう。で、ポールはいち早く目覚めた人として、社会を・政府を・資本家を・知識人を・自分に追随しない人々を憎み、怒っていたのだった。たぶんその種の目覚めは「詩」を読んだ時のような天啓とか啓示でもって突然起こることだと思っていたのではないかしら。
 「アデン・アラビア」は小説ということになっているが、語り手以外の人物は登場しない。すべて独白(聞き手がいない)。しかも語っている対象は奔放に飛んでいき、論理的な記述に慣れているものには彼の思考の飛躍についていくのが難しい。
 とりあえず章ごとの話題を抜書き。
1 ・・・ (フランスという)世界の危機の予感。哲学への幻滅。
2 ・・・ 教育の不満。社会という牢獄にはいる。ここから逃げ出したい。
3 ・・・ 汚濁した世界からの逃亡、旅、冒険。しかしヨーロッパには旅するところはない。あるとすると、アジア=叡智の英雄、アメリカ=権力の英雄であるこの二つの場所。アフリカ、オセアニアは問題外。
4 ・・・ 旅行、すなわち自由、無私、冒険、充実。ただおれは旅するチャンスを待っている。
5 ・・・ 10月、客船に乗って出発。大西洋、地中海、紅海、インド洋と移動してアデン到着。出発から34日後。
6 ・・・ 旅行者と居住者の違いについて。
7 ・・・ イスラム幻想の眼で見たアデン。最後に西洋の植民地であることを批判。
8 ・・・ 言葉が通じない外国人としてアラビア世界にいるということ。
9 ・・・ アラビアで活躍するヨーロッパ資本の企業について。資本主義企業の経営者にならないかという誘惑。
10 ・・・ ヨーロッパ人のみた「奇妙」なアラビア人の生活や風習について。彼らには「愛」がない、などとのたまう。
11 ・・・ ソマリ(ア)へのオプショナルツアー。
12 ・・・ 共同体から離れたアデンで孤独であることについて。孤独を突き進んだ末に愛する「他者」を見出したところから「革命」が始まる。
13 ・・・ アデンの孤独からヨーロッパの喧騒を思うと、人間に関するものだけが自分にとって意味がある。だから枯れかけているヨーロッパを救うことは重要なのだ。
14 ・・・ 北(ヨーロッパ)に帰る。イスラム社会の悪口と蔑み。
15 ・・・ フランスの悪口。この国は資本と教会が引き回している。資本の収奪が激しいために貧乏人は苦しんでいる。ホワイトワーカーはホモ・エコノミクスに成り下がっている。というような経済学用語を使った詩的な社会批判。まあ26歳だからマルクス主義を満足に理解していないのも仕方がない。唐突に「ぼくは闘う」宣言。怒りと憎悪は決して自分から消えない。

 なんで「私」はここにいるのか、「私」がいる場所はここではないのではないか、どこにあるかわからない「そこ」で「私」の存在の意味が見つかるのではないか。こういう思念、というか疑い、というかいらだしさというのはたぶんだれにも共通に起こることであって、20歳前後の精神的な危機となる(思い付きだけど、多くの未開部族に残るイニシエーションというのはこの危機を克服するために共同体が用意した仕組みなのだろうね。近代以降の社会はその仕組みをもっていない)。たいていはなにか折り合いをつけるけど、時としてどこか遠くへ行ってしまおうと激烈な行動に入ってしまうことがある。ポールのように旅に出もすれば、社会ではマイナーな集団に入って共同生活をするとか、あえて反社会的な行動に突き進むとか。そのときの不安で苛立たしく衝動的で落ち込みやすい気分の描写として「アデン・アラビア」がある。
 初老のオジサンの感想でいえば、せっかく異国のアデンに行きながらもカルチャーショックを受けるのではなくイスラム社会に幻滅するとか、他者の存在が重要と言いながらも具体性に欠けているとか、資本主義を非難しているけど経済学には無知らしいとか、この人の世界のとらえ方は観念的。理屈と現実が一致しないで挫折するとき、理屈の側にたってしまうのではないかという危険があるように思えた。幸い(といってよいのか)、1930-45年は世界の凶暴さがあらわだったので、彼の理屈が挫折することはなかったようだが。こんな感想を書くと、30歳未満の若者からは「保守」「体制家」などといわれるのだろうな。
 類書になるのは、ゲバラ「モーターサイクル・ダイアリーズ」とか小田実「何でも見てやろう」。同時代のフランス文学はサン=テグジェベリ「人間の土地」にガスカール「街の草」サルトル「嘔吐」などかな。ああ、ランボー「地獄の季節」も。

  

アルテゥール・ランボー「地獄の季節」(岩波文庫) 誤訳意訳が多いらしいが尋常でないテンションを維持する小林秀雄訳は忘れがたい。 - odd_hatchの読書ノート
ピエール・ガスカール「街の草」(晶文社) 1930年代フランスの不況と右傾化にあって、腹をすかせた若者たちの共同生活。 - odd_hatchの読書ノート