odd_hatchの読書ノート

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三浦佑之「古事記を読みなおす」(ちくま新書)-1 古事記と日本書紀を一緒にする「記紀神話」は誤り。「古事記」にしかない出雲神話は重要。

 「記紀神話」と言われるようになって久しいが、古事記日本書紀では記述が異なる。ヤマト朝廷の正史である日本書紀が味気ない記述に終始しているのに対し、古事記に登場する神々の方が深みがある。そこで次のような意図で、古事記を読みなおす。「記」ではない「紀」のほうが古層の精神を宿し、語りのおもしろさがあるのではないか。

古事記は、律令国家の由緒を描く史書として読まれてきた。だが、こうした理解には根本的な誤りがある―。日本書紀には存在しない「出雲神話」が必要とされたのはなぜか。どうして権力にあらがい滅びた者たちに共感を寄せるのか。この作品の成り立ちを説く「序」は真実か…このような疑問を通じ本書は、「国家の歴史」以前から列島に底流する古層の語りとして、古事記をとらえ返す。それにより神話や伝承の生きた姿、魅力がよみがえる。古事記の世界を一望に収める入門書の決定版。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784480065797

 語りを重視するので、人名はカナ表記とし、のちに付けられて漢字表記を用いない。たとえば神武天皇ではなく、カムヤマトイワレビコとする。カナ表記のように当時の人々が語っていたときに、その音から喚起される感情や意味に鋭敏になろう。

序章 なぜ古事記を読みなおすのか ・・・ 著者の考えでは、古事記日本書紀を一緒にする「記紀神話」は誤り。歴史を記述する味気ない日本書紀と、語り(猥雑さ、エロス、笑いなど)による情緒喚起の古事記は別物である。とくに上巻の4分の1を占める出雲神話日本書紀にないこと。それに「序」に書かれた成立過程も疑わしい。ここでは国家とは距離を置いて、古事記を読みなおす。

第1章 青人草と高天の原神話 ・・・ まずは創世神話から。人の起源が書かれていないようだが、人は草であり、「なる」のだしてある。このあと日の神と月の神の対立があったと思われるが、アマテラスとスサノオ姉弟神話になった。ここで彼らは占いをするが古事記ではスサノオの負けと読める記述が、書記ではスサノオの勝ちという神話が採用されている。このあとスサノオは爪と髪を切られて追放されるが、古代では爪と髪は穢れであったことがわかる。

第2章 出雲の神々の物語 ・・・ このあとの出雲神話(オオナムデ:大国主)は日本書紀にはない。古事記出雲神話を読むと、ヤマトとは別にイズモ、コシ(現在の石川、富山)、スワ(長野)、ツクシ(北九州)をつなぐ日本海文化圏があったと想定され、それは考古学調査と一致している。古事記はそれらの神話を征服された側から語っていると読み取るべき。瀬戸内・太平洋文化圏にあるヤマトは日本海文化圏を征服支配し、ヤマトとそれ以外を主従関係にする中央集権制にした。それまであった地方文化圏や勢力の相互関係を破壊した。日本書紀は支配体制である律令制成立以後にできたので、支配された地域の神話は意図的に省かれている。

第3章 天皇家の神話―天から降りた神々 ・・・ そのあとは海幸・山幸。これは兄弟けんかと改心の話と単純にみるのはよくない。幸とは獲物であり獲物を捕る道具でもあり、特定の人は特定の幸を使わないと幸を得られない。海幸が元の針を返せというのは(当時の思想では)合理的だった。ここでは山が海より優れているところと、山幸が天皇の血筋につながる正統者であるところが重要。そのあとの東征(歴史的事実とは考えにくいとのこと)はクマソに天孫が降臨するが、クマ(熊本県南部)とソ(鹿児島県)という辺境はヤマトの支配になかったところで、そのような異世界天孫が降臨して東征したことでヤマトの支配力が九州南端まで届いたと考えられる。8世紀初頭であるらしい。
皇紀は中国のしんい思想による辛酉(しんゆう)革命(干支の60年が21回になるごとに革命が起きるという考え方:古事記の書かれたころは601年が辛酉の年で、その1260年前に天皇が即位したとした。そこから数えて2600年目が昭和15年1940年。この年にオリンピックと万博で祝おうとしたが中止になったので、実現は悲願であり、それぞれ1964年と1970年に実現した。)

 

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2024/08/05 三浦佑之「古事記を読みなおす」(ちくま新書)-2 著者は政治的には読まないのだが、記述のはしばしからヤマトの政治が見えてくる。 2010年に続く