伊勢神宮は1300年にわたり日本神道の中心点であり続けた。しかしいつどのようにしてそのような位置付けになったのかはよくわからない。神道が言葉を重視する宗教ではないので、経典・教典を作る意思がなく、記録を残そうとしなかったから。そこで著者は、アマテラス信仰と神国思想を調査することで伊勢神宮を解説しようとする。
まずわかるのは、古事記や日本書紀が成立する以前から日神の信仰があり、中国の道教などの考えと合体してアマテラス信仰ができたらしいということ。今でも(?)残る「おてんとうさま」信仰などはそのなごり。記紀をみると、5世紀には伊勢神宮はあり、記紀成立のころには中心的な神宮になっていたらしい。
(日神信仰でいうと、「ヒミコ」は「ヒメミコ(日女御子)」と解釈できて、2世紀ころには日神信仰が成立していたと考えられる。もちろんヒミコとアマテラスの関係は不明。)
神国という言葉が最初に記されたのは日本書紀。鎌倉時代に神道は仏教徒の差異化を図る。その例が「神皇正統記」で、「インド・中国・日本が世界を構成する」という三国観からなる。神国概念は蒙古襲来という国外からの危機があった時と一致する。中世を通じて神道は無視されがちで、伊勢神宮も120年余遷宮が行われなかった。これを復興したのは豊臣秀吉で、このあとに朝鮮出兵を行う。国外からの危機に会うと神国思想が再燃するのは、江戸時代の幕末でもあった。旅行や居住地の移動が制限されていても、伊勢参りを止めることはできず、倒幕直前には「ええじゃないか」運動で多くの人が伊勢神宮を訪れた。
明治政府は伊勢神宮を国家神道の中心に据えた。天皇親拝が繰り返された。そのために民間による支援組織は解体され、国営に準じる運営になる。県庁所在地に搖拝所が作られ、参拝を強制する。キリスト教や仏教への対抗や防衛の意味があった。
海外植民地を作ると、そこに神宮や神社を設け、参拝を矯正した。約600社が作られ、おもに朝鮮・台湾・満州で大半を占める。土俗信仰を捨てさせ、現地宗教者と弾圧した。なので、日本の敗戦後にはこれらの施設は解体されるか転用された。神道の秘教的な装いが現地の人たちには理解されなかったし、日本の支配の記憶がそうさせた。
神道は他の宗教には不寛容。中世の律令制が壊れた時代では社会の体制から正統性が導かれないので、仏教や道教の思想で説明することがあったが、のちに神仏習合を進める理屈付になった。実際にはキリスト教や仏教に対しては不寛容であり続けた。ことに国家神道ができてからは、他宗教に神宮参拝や天皇崇拝を強制した。
著者は神道が世界宗教になる可能性があるといっている。鍵になるのは日本が世界の中心であるという世界観をどのように改変できるかだろう(カルト宗教には特定の国が世界の中心にあるという教義を持ったまま他国で布教している例はある)。しかし神道にある天皇崇拝、男性優位社会、朝鮮他への侵略のイデオロギーは世界で受け入れられないだろう。 WW2でアジアその他の国に多大な被害と損害をもたらしたことの反省を表明しないかぎり、危機をもたらすものとして監視され続けるだろう。
逆にいうと、今の極右やネトウヨが国家神道に執着する心理的な理由が国家神道に由来していることがわかる。日本が世界の中心であり、他国や多民族・他宗教に不寛容であるのは、神道の教義そのものであるし、鎖国や孤立を望むというのも国家危機の際に立ち現れる神国思想に基づくのだ。
わが身が護られるという表象は、心理学者ユングによれば、円を描いて封ずるという行為にあるという。孤立している人間を外部から襲う「魂の危険」から身を護る。逆にこの手段は、昔から一地域を神聖不可侵なものとして隔離することになる。孤立状態が意図的に高められ、目的にかなった意味が与えられ、孤立は不安を喚起するということがなくなる(C·G·ユング、池田紘一·鎌田道生訳『心理学と錬金術』人文書院、一九七六年)。(P99)
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