古事記(712年)と日本書紀(720年)はどのように読まれてきたか。これらの神話は、律令体制国家を統治する天皇の正統性を明らかにするものだ。中国の陰陽説や天下の概念を採用しながら、「日本(朝廷自身が命名)」が大国であり朝鮮を属国とする帝国的世界・律令国家であることを根拠つけるものである。
しかし子細に読むと、古事記と日本書紀では神話の説明や体系が異なる。古事記では天皇につながる神の物語だけで人間の始まりを語らない。天(高天原)が人間世界(地)より上位であり、アマテラスという主宰神の孫であることが天皇の正統性の根拠になる。天皇の命の短さと人間が死ぬことは同じではない。一方日本書紀は中国古典の引用から始まるなど、中国の世界観に依拠している。天と地は同等であり、アマテラスは日神ではあるが皇祖神ではない。ムスヒという万物創生概念によって天皇は自力で地を支配することを正当化した。このように神話は異なる。それだけでなく人麻呂歌も別の神話を記述している。また皇族の祭祀は記紀神話と対応はない(天皇は祭祀を統括することで世界の運行を支えていて、そのことが正統性の保障になっている)。古代ではこのように複数の神話が並列していてかまわなかった。天皇の正統性が保障されることは律令制を維持することを正当化することでもあった。
(日本書紀の読みは以下が参考になる。)
9世紀ごろから神話を一元化する試みが始まる。このときに日本書紀がテキストに選ばれ(古事記が秘密の書とされるきっかけになる)、講読を繰り返して新たなテキスト(タイトルも異なる)を作っていった。奇妙なのは9世紀ですでに、古事記や日本書紀の読み方がわからなくなっていて、複数の訓読が生まれていた。これが中世になると、律令制が失われていたので日本を中心とする神話では根拠付けられず、仏教や儒教の教えと一致していることを理由にするようになった。
本居宣長がこれに異議を唱え、古代に戻すことをもくろむ。すなわち、日本書紀より古事記のほうが古言を記録しているので、帝国的世界ではなく民族的文化世界があることが重要とした。古言にナショナルアイデンティティがあり、まことの心である「物のあはれ」を得られるのだ。成すべきことは歌を作ることである。歌を詠むことは倫理的実践にほかならない(なるほど、なので天皇は和歌を作ることが必須なんだね。知的エリートのディレッタンティズムではなく、神道の本義に関わる重要な祭祀なのだ)。
(宣長の言う「物のあはれ」は本書ほかの説明を読んでもよくわからない。自然現象や祭祀などの現れをみて沸き起こる感情、というところかしら。それを和歌という歌謡の形式に乗せることが大事なのだろう。)
本居宣長(らが創始した国学)を明治政府は引き継いた。天皇崇拝、男性優位社会、朝鮮の属国化などの皇国イデオロギーは記紀神話にまでさかのぼるわけだ。明治政府は言葉による国民統合をめざし、文学の国民運動を進め(なるほどその一環に言文一致運動があるわけだ。江戸の言葉には古言はないからね)、国民教育を進めた。その結果が「大東亜戦争」と称する植民地獲得と民族浄化の戦争だった。
学問の記述で進めようとするけど、古事記と日本書紀を読むことはどうしても皇国イデオロギーの解説になり、多かれ少なかれイデオロギー批判も含まれる。
こうやって記紀神話から国家神道までの道をたどると、神がかりな神道はこれらとは全く異質であることがわかる。民俗に残る神道行事は、天皇崇拝には関係しないのだろう。
読み終えてから時間が空いたので本書の記述かどうか自信がないが、記紀が書かれた前後に列島の習俗が大幅に変わった。古墳や埴輪、銅鐸などの製造をやめ、髪型を変え、服を変えた。かわりに木造の神社をつくり、漢字の使用を求めた。素人である俺が推測するに、列島の大半を支配下においたので、朝廷は中国化を開始し、支配下にある地域の同化を強制した。支配下地域の風俗、宗教その他を破壊したのだ。その大規模な社会と文化の変更が200年たらずの間に起きた。(これに匹敵する大変化は14世紀の朝廷の失権-地方分権化と19世紀の明治維新だけではないか。)
のちに明治政府が記紀時代の官職名を復活させたが、単なる懐古でそうしたのではなく、記紀時代の朝廷の基本政策を継承する意志の表れであったと思う。すなわち、明治政府はちょんまげや帯刀を廃止し様相を奨励する風俗改革を行い、漢文や古典文の使用をやめて官製の文体を使用した。欧米の文化全般を輸入し、政府・宮廷の儀式や祭儀のやり方を変更した。廃仏毀釈で地方の習俗や宗教を破壊した。なにより明治時政府が強制した皇国イデオロギーは記紀時代のイデオロギーそのものだった。